第二章 第十六節ヤコブ書概説1

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⁋ヤコブ書はへブル書と共に、新約聖書中において、その受け取り手が明瞭でないという事において、特殊の位置をもつ書簡である。勿論この両書とも、「宛名」が——ヘブル書は「ヘブル人へ」とし、ヤコブ書は「散り居る十二の族」としている——ないわけではないが、それが如何なる教会または如何なる群を意味するものであるかが不明であって、殆ど象徴的呼称であるかとさえ思われるからである。故に宛名のあることが、この両書簡の性格決定を、むしろ困難ならしめているといわなければならない。またその書簡としての形式においても、ヘブル書は結語はあっても、冒頭の挨拶がなく、ヤコブ書はこれと正反対である。更に進んでこの両書を比較すると、ヘブル書はその受け取り手が明瞭でないにも拘らず、それが具体的の一群の人々に宛てられたものであることと、その一群の人々の信仰的及び実際的状況は明かであるが、ヤコブ書に至ってはそれらのことが一切不明であるという事において、大いなる差異がある。また筆者に就てみると、ヘブル書の筆者はそれが何人であるかを知ることはできないが——

「この救は初め主によりて語り給いしものにして・聞きし者ども之を我らに確うし」

という言によって(二章三節)、それが使徒的世代ではなく、第二世代のものであるということと、前述の如く、彼がその受け取り手と密接な関係をもっていたということが知られるのみであるに反してヤコブ書の筆者はその名が「主イエス・キリストの僕ヤコブ」とその冒頭に記されてあるにも拘らず、それが新約書に記されている数人のヤコブ中、その何れであるかを知ることができない、という恰度正反対の困難をもっている。
⁋ヤコブ書がその宛名として記している、「散り居る十二の族」とは、 選民イスラエルの十二族にして、「散在」の状態に在る者の意である。この「十二族」なるものは、いうまでもなく、イエス時代に存在したものではなく、そのうち十族は、紀元前七二二ー一年アッスリア帝国に亡ぼされて、その痕跡はただ彼らの一部分とアッスリヤ人またはその他近傍諸族との混血民族としての「サマリヤ人」があったのみである(列王記十七章五節以下・ヨハネ伝四章九節参照)。然も本書の内容が福音を解説する為の書簡であることをみれば、本書がユダヤ人に宛てられたものでないことは明かである。これらの事を考えると、この宛名が一つの象徴的なものであることは、もはや論ずるまでもないことである。更に繰り返えしていうが、本書はその読み手に関する特定の地域または状況を示す何らの言及または暗示を与えていない。これらの事から、本書が一つの回章的書簡ならんとの推定が、自然になされるようになっている。

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第二章 教会書>第十六節ヤコブ書概説 01  終わり、次は第十六節ヤコブ書概説 02

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