第二章 第十五節 ヘブル書概説 19

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第五 勝れるものの追求2 (十章三十二節―十一章四十節)

(2) 勝れるものの追求 (十一章一ー四十節) 

⁋筆者は進んで彼らがあるいは軽んずるかも知れない、しかして投げ棄てるかも知れない、「勝れるもの」が、実は旧約時代の最初から、凡ゆる苦難と犠牲とにも拘らず——時としては死をさえも厭わず、追求せられしものであることを述べて、その真の価値を教えている。しかして「信仰」とは、実はこの「勝れるもの」を追求することをいうのであると教えている。筆者は前に選民が、神によって備えられた「安息」に入ることのできなかったのは、「不信仰によりて」だと断定した(三章十九節)。今や彼はもう一度この信仰の意義にその論点を還している。
⁋彼は旧約の最初から聖徒らが追求したものが、「勝りたる所」であり(十六節)、「勝りたる復活」であり(三十五節)、しかして神の備え給える「勝りたるもの」であることを述べている(四十節)。然もこれこそこの聖徒らが、

「皆信仰に由りて証せられた」

けれども、然し彼らはその「約束のものを得」ることが出来なかった。その理由として彼は

「これ神は我らの為に勝りたるものを備え給いし故に、彼らも我らと共ならざれば、全うせらるる事なきなり」

と断定して いる(四十節)。
⁋この追求の証人として、筆者が述べている聖徒は、アダムとエバの堕落後、初めて創世記に記録せられている、アベルとカイン・エノク・ノア・アブラハム・イサクとヤコブ・ヨセフ・ モーセ・ラハブ・ギデオン・バラク・サムソン・エフタ・ダビデ・サムエル・及び預言者たちと、その名を記されてはいないが、その行動が記憶せられている人々等である。斯くして旧約聖書はその全体として、筆者のいう「勝れるもの」の追求の書として理解せられ、然もその追求の対象は、彼らによって獲得せられなかったものと観られている。

「彼等はみな信仰を懐(いだ)きて死にたり。未だ約束の物を受けざりしが、遙かにこれを見て迎え、地にては旅人・また寓(やど)れる者なるを云いあらわせり。斯く云うは、己が故郷を求むることを表わすなり、若しその出でし処を念わば、帰るべき機ありしなるべし。されど彼らの慕う所は天にある更に勝りたる所なり。この故に神は彼らの神と称えらるるを恥とし給わず、そは彼等のために都を備え給えばなり」

と述べて、筆者はこの書簡の受け取り手が、 現在その所有として与えられている、「勝れるもの」の無上の価値を、もう一度力説している(十三ー十六節)。
⁋斯くして本書は、この部分において、大祭司により全うせられし救が、読者に与えし「勝れるもの」の現在的堅持の対象としての価値と、その歴史的追求の対象としての価値とを述べて、その一大キリスト論の理論的結尾としている。

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第二章 教会書>第十五節 ヘブル書概説 19  終わり、次は第十五節 ヘブル書概説 20

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