第二章 第十五節 ヘブル書概説 13

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第三 アロンより優れる者 1(四章十四節―七章二十八節)

⁋この部分には信仰者が、神によって備えられた「安息」に入ることが出来ないかも知れないという、「弱さ」をもつ者でありながら、然もアロンより勝れる大祭司の「恵の座」に来るべき事が勧められている。しかしてその勧に力あらしめ、且つその弱き者に恵の座に来るべき力を与えんが為に、その「大祭司」に就て、次の如く三段の説明が与えられている。

(1) 従順によりて全うせられし大祭司 (五章一ー十四節)
 ーこの項に関する実践的奨励 (五章十一一十四節)
(2) メルキセデクの位に等しき大祭司 (六章一節ー七章十節)
 ーこの項に関する実践的奨励 (六章一一十二節)
(3) 優れる契約の保証としての大祭司 (七章十一ー二十八節)

⁋以下この順序によってみてゆくこととしよう。

(1) 従順によりて全うせられし大祭司 (五章一ー十四節)

⁋先ず筆者はこの大祭司を旧制度のアロン系の大祭司と比較し、その論述を始めている。旧制度の大祭司は、人に代ってその罪の為に。犠牲を献げ且つ神に事える為に、「人の中より」選ばれる。しかして彼自身弱きにまとわれているものであり、また彼自身の罪の為に供物をしなければならない。然もこの大祭司ですらも

「アロンのごとく神に召さるるにあらずば、誰も自ら之を取る」

ことができない。新制度の大祭司即ちイエスも、この点においては旧制度のそれとは異らず、

『キリストも己を崇めて自ら大祭司となり給わず、之に向いて「なんじは我が子なり、われ今日なんじを生めり」と語り給いし者・これを立てた』

もうたのであった。この神によって立てられたという点においては、この両者は相対応せるかの如くみえているが、然しその立てられた根源において、彼らは絶対的の差異をもっている。即ち新約の大祭司は、旧約の大祭司が罪をもち、弱きにまとわれ、根源的不従順をもっていたのと異り、絶対的「従順」によって、全うせられた大祭司である。筆者はこれを説明して、

「キリストは肉体にて在ししとき、大いなる叫と涙とをもて、己を死より救い得る者に祈と願とを献げ、そのうやうやしきによりて聴かれ給えり」

とキリストのゲッセマネの苦祷の意義を述べている。福音書はこのゲッセマネの園における主が、

「わが心いたく憂えて死ぬばかりなり」

といい、

「わが父よ、もし得べくばこの酒杯を我より過ぎ去らせ給え、されど我が意のままにとにはあらず、御意のままに為し給えと」

祈り給うたことを記し(マタイ伝二十六章六節以下・マルコ伝十四章三十二節以下・ルカ伝二十二章三十九節以下)、特にルカ伝はその姿を

「イエス悲しみ迫り、いよいよ切に祈り給えば、汗は地上に落つる血の雫の如し」

と述べている(二十二章四十四節以下)。父の聖旨に対する子なるイエスの服従が、この祈の最高峰をなしている。ヘブル書の筆者はイエスのこの苦祷に、イエスの絶対的「服従」と「従順」とをみた。

⁋「彼は御子なれど、受けし所の苦難によりて従順を学び、かつ全うせられたれば、凡て己に順う者のために永遠の教の原となりて、神より……大祭司と称えられ給えり」

と論じている。斯くして旧約の大祭司が人間として絶対に避けることのできなかった、根源的「不従順」をもっていたのに対して、この新約の大祭司は、その苦難によって絶対的「従順」を学び、それによって全うせられたる大祭司とせられ給うたのであった(五章一一十節)。これが筆者の第一の大祭司論である。

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第二章 教会書>第十五節 ヘブル書概説 13  終わり、次は第十五節 ヘブル書概説 14

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