第二章 第十五節 ヘブル書概説 12

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第二 モーセより勝れる者 (三章ー四章十三節)

⁋前項においては救拯一般に関して論述せられたが、この部分においては、特に選民イスラエルの過去に関する論述が見出される。従って前項の終をうけて、その冒頭に

「されば共に天の召を蒙れる聖なる兄弟よ…..大祭司たるイエスを思い見よ」

といわれ (三章一節)、しかして御子にして大祭司たるイエスと選民の代表的指導者たりしモーセとの比較が述べられている。

・「彼の己を立て給いし者に忠実なるは、モーセが神の全家に忠実なりしが如し」

といわれている。然しその「忠実なること」においては両者対照し得られるが、然しモーセは「僕」としてであったのに対し、イエスは「子」としてであって、その間には無限の差異がある。これに依てイエスは

「モーセに勝って大いなる栄光を受くるにふさわしき者とせられ給」

うた(三節)。 しかしてモーセは神の全家たりし「選民」に対してであったが、キリストは神の家たる「教会」 に対してであった。従って選民の為に備えられた「安息」は、遂に選民の達する処とならず、今に至るまで遺(のこ)されている。しかしてその「安息」は、今や教会の前に備えられ、これに入るべきことが求められている。
⁋以上の如くモーセとイエス、選民と教会とを対照すべき基礎を置いて、筆者はその本論に入っている。先ずイスラエルが神によって備えられた「安息」に入り得ざりしは、「不信仰によりてなり」として、彼らがエジプトを出でしのち、荒野の四十年の間聖前に示し来った、「不信仰」ひいては「不従順」の事実を指摘している(三章七節以下)。ここで筆者の論述は一転して教会に向けられ、

「然れば我ら懼(おそ)るべし、その安息に入るべき約束はなお遺れども、恐らくは汝らの中これに達せざる者あらん」

と(四章一節)、徐々に読者の反省を求めんとしている。進んで筆者はこの安息と教会との関係を述べ、「世の創より御業は既に成」り、「七日目に神その凡ての業を休みた」もうたという言を引照し、更にイスラエルの不信仰の故に、神が「彼らは我が休に入るべからず」といい給ったことを引照し、これを基礎として

「然れば之に入るべき者なお在り」

と、この「安息」が、教会の為に遺されている事を述べている。次いで

「然れば 神の民の為になお安息は遺れり。されば我らはこの休に入らんことを努むべし、是かの不従順 の例にならいて誰も墜つることなからん為なり」

という勧告を記している。これによって業の未完成即ち「未だ」の原因は、人間的不従順の象徴であることを明示している(三章十八節参照四章十節以下)。
⁋然れば信仰者は、神の業の完成(既に)と、自己の不従順による未完成(未だ)とにはさまれた存在である。故に教会はこのイスラエルの「既に」と「未だ」という時間構造からその教会の置かれている「今日」という時間構造を読み採らなければならない。何となれば人の心の不従順を探る

「神の言は生命あり・能力あり・両刃の剣よりも利くして、精神と霊魂・関節と骨髄を透して之を割ち、心の念と志望(こころざし)とを験(ため)す」

からである(同十二節以下)。然れば

「兄弟よ・心せよ・恐らくは汝等のうち活ける神を離れんとする不信仰の悪しき心を懐く者あらん。汝等のうち誰も罪の誘惑 (まどわし)によりて頑固にならぬよう、今日と称うる間(うち)に日々互に相勧めよ」

という言にもみられる如く、「既に」と「未だ」にはさまれた緊迫感こそ、「今日」の時間意識として教会に受けとられなければならない。この部分には、「今日」が五回も繰り返えされている事は注目すべきである。

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第二章 教会書>第十五節 ヘブル書概説 12  終わり、次は第十五節 ヘブル書概説 13

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