第二章 第十五節 ヘブル書概説 11

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第一  天使より勝れる者 2(一章一節ー二章十八節)

(2)神の究極的語りかけの目的 (二章五ー十八節)

⁋この部分においては、前項における御子と御使との比較による、御子の優越性立証のあとを受けて、その御子の「イエス」という御名を記してその論述を進めている。即ちその優越なる御子「イエス」が、具体的におどろくべき卑き位置を採り給いし逆説的事実が述べられている。先ず詩篇第八篇を引用して、

「既に万の物を之に服わせ給いたれば、服わぬものは一つだに残さるる事」

のない筈であることを力説している。しかしてここに「されど」という副詞が、極めて強く且つ巧みに用いられている。即ち筆者は進んでいう。

「されど今なお我らは万の物の之に服いたるを見ず」

と、そのおどろきを記し、更に進んで

「ただ御使よりも少しく卑しくせられしイエス」

を見るのみならず、更に進んで彼が「死の苦難を受」け給うたという、矛盾に満てる事実をみさせられたと語っている(二章五ー九節 上半)。然るに——筆者は進んでいう——この矛盾こそ・この矛盾の故に、万物の救と万民の救とが完成されたのである。即ち

「これは死の権力を有つもの、即ち悪魔を死によりて亡し」

給わんが為であり、

「かつ死の懼(おそれ)に由りて生涯、 奴隷となりし者どもを解き放ち給わんため」

であったのである(同十四ー五節)。ここに優越者が卑賤者とせられたという、逆説的秘義と、その能力との解明が与えられた。

「これ神の恩恵によりて万民のために死を味い給わんとてなり」

とは、この逆説を一言でいい現わしたものである。しかしてこの逆説を表現する為の転轍機(てんてつき)として用いられたのが、副詞「されど」である。
⁋ここに不可思議な神の子の自己謙虚が指摘され・救拯の秘義が現わされる。しかしてここに神の人に対する御子に由る究極的語りかけの目的がある。即ち是は、万物の世嗣となり給いし事により、これを既に「所与」とし給う御子イエスが、人間における不従順の罪をいやさんが為、人間における「未だ」を身に引き受け、死の苦難を通して、これを成就し給うたというのである。この死の苦難こそ人間の「未だ」を克服する御子の「従順」である。従って御子による究極的語りかけとは、御使や預言者の語りかけとは異って、人間の従順を代って成就し給う御子そのものである。

「それ多くの子を光栄に導くに、その救の君を苦難によりて全うし給うは、万の物の帰するところ、万の物を造り給う所の者に相応しき事なり」

とはそれを意味している(同十節)。この「苦難による完成」とは

「十字架の死に至るまで順い給える」

御子の従順に他ならない(ピリピ書二章七節)。ここに筆者が御子と御使との比較により御子の「苦難」に論及し、神の究極的語りかけの目的を明かにした理由がみられる。
⁋筆者は進んでこの部分において、彼が本書の全内容としているキリスト論立論の媒介たらしめんが為、この「万民の為に死を味い給」いし御子と「大祭司」との連関を導き出している。即ち御子はこの贖罪と救拯との故に、旧約の中心をなしている「大祭司」職を全うする者・否彼こそ「原」大祭司なりとせられる(二章十七節)。 それ故この部分全体の帰結としての訴は、

「この故に我ら聞きし所をいよいよ篤(あつ)く慎しむべし、恐らくは流れ過ぐる事あらん。若し御使によりて語り給いし言すら堅くせられて、咎と不従順とみな正しき報を受けたらんには、我ら斯くのごとき 大いなる救をなおざりにして争(いか)でかのかるることを得ん」

という言である(同一ー三節)。

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第二章 教会書>第十五節 ヘブル書概説 11  終わり、次は第十五節 ヘブル書概説 12

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