第二章 第十五節 ヘブル書概説 10

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第一  天使より勝れる者 1(一章一節ー二章十八節)

⁋本書は前述の如く序言または挨拶を記さず、直ちにその内容論述に入っている。この部分は 二つに分たれ、前半が神の究極的語りかけの方法に、後半が神の究極的語りかけの目的に用いられている。

(1) 神の究極的語りかけの方法 (一章一節ー二章四節) 

⁋冒頭の

「神むかしは預言者等により、多くに分ち、多くの方法をもて先祖たちに語り給いしが、この末の世には御子によりて、我らに語り給えり」

という言は、本書全体の「頭書」 Superscription であると共に、これによって旧約時代が新約時代によって置換せられたことを断定している。しかしてその新約時代なるものは「御子による語りかけ」であることによって、旧約時代を置換するのであって、この語りかけが「誰に」よるかによって、その旧約との本質的差異がみられているのである。この意味においてここには、この「御子」の「天使より勝れる者」なることが論証せられると共に、その性格の説明が与えられることに由て、この「語りかけの方法」が、前代のそれと全く異ることが示されている。
⁋この論述は先ず、

「神は曾(かつ)て御子を立てて万の物の世嗣となし…..御子は神の栄光のかがやき、神の本質の像(かたち)にして、己が権能の言をもて万の物を保ち給う。また罪の潔をなして、高き処にある稜威(みいつ)の右に坐し給えり」

といわれている(一章二節以下)。しかしてこの御子が「御使よりは更に勝る者」である事を示す為、御子と天使との比較がここになされている。
⁋この御子と御使との比較は、非常に深く且つ巧みなる神学的考慮を以てなされている。これには二つの理由がある。その一は、当時のユダヤ人の間にあった、天使崇敬を否定せんが為であった。当時のユダヤ人の間には「律法」を神から受けて、これをイスラエルに伝えたのは天の使であるという考があった。ステパノが

「なんじら御使たちの伝えし律法を受けて、なおこれを守らざりき」

といい、またパウロも

「然れば律法は何のためぞ…..御使たちを経て中保の手によりて立てられ」

といっているが(使徒行伝七章五十三節・ガラテヤ書三章十九節)、これがこの一般の考を示している言である。この考によると、旧約の啓示は上述の如くにして語られたが(一章一節)、 然しそれは「天使によって」与えられたものとなり、その意味において、特殊の附帯的権威をもたせられてきたわけである。勿論この考え方の根源は、神人間(ひとかん)に中間的存在者を必要とした為であって、むしろ天使を介して与えられたとすれば、その律法の価値は軽減するわけであったが、然し通俗的の受け取り方においては、前述の如く、恰度逆となって、これが附帯的権威を与えるようになっていたのである。この意味において、旧約の啓示を新約のそれによって置換する為には、御子と御使の比較により、御子の「勝れる者」なることが立証されなければならなかったのである。ここにヘブル書が「御子」を特に「御使」と対照して、その遙かに優越なるを立証しなければならなかった理由があったのである。これが為に筆者は天使の位置と価値とを決定して、結論的に「御使はみな事えまつる霊にして教を嗣がんとする者のために職(つとめ)を執るべく遣わされたる者にあらずや」といっている (同十四節)。これによって筆者は、一方に同胞の信仰的誤謬を正すと共に、他方に御子が天使などとは比較することのできない、「更に勝る」者であることを立証している(四節)。
⁋次に本書が「御子」と「御使」とを比較している第二の理由は、それによって御子の優越性を示すことによって、更にこれに対して逆説的ともいうべき、神学的対照を導き出さんが為でがある。しかしてこの部分の中心的断定の言として、「その受け給いし名の御使の名に勝れるごとく、御使よりは更に勝る者となり給えり」と記している(同四節)。

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第二章 教会書>第十五節 ヘブル書概説 10  終わり、次は第十五節 ヘブル書概説 11

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