第二章 第十五節 ヘブル書概説 7

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⁋本書がそのキリスト論の結論を具体化している第二の点は、大祭司によって完成せられしものを、獲得せしめる途としての「信仰」の解釈においてである。
⁋本書によれば信仰とは与えられていないものの追求ではない。信仰とは「既に」与えられていて・然も『未だ」与えられていないものの獲得である。即ち信仰とは大祭司キリストに由る「既得であって然も未得であり・未得であって然も既得である」神の賜物の「現在的獲得」を意味する。現代神学の用語を以てすれば、それは「直接法」indicative で語られるものであるが、同時にそれは「命令法」imperativeで云わるべきものである。しかしてそれを示すのが本書の「安息」獲得を勧める次の言である。即ち

「今日なんじら神の声を聞かば、心を頑固(かたくな)にする勿れ……既に神の休みに入りたる者は、神のその業を休み給いしごとく、己が業を休めり。されば我等はこの休みに入らんことを努むべし、是かの不従順の例にならいて誰も堕つることなからん為なり」

と記されている(四章七節以下)。神の安息とはその創造と贖罪との御業の完成を指し・しかして神はこの安息を信仰を貫く者に約束し給うたし、また之を賜物として既に備え給うた。然るに未だこの安息は獲得されていない。というのは人間の側における不従順は、常に「既得」のものを「未得」たらしめるものであるからである。
⁋従って信仰の完成とは、「信仰の使徒たり大祭司たるイエス」キリストを仰ぐことに由て、初めて到達し得ることである。それは大祭司イエスにおける「原服従」(五章七ー十節)に由てのみ、人は「既得にして未得なる」賜を「獲得」し得るからである。本書はこの関係を、二種の巧みなる用語を以て表現している。先ず第一に・大祭司たるイエスを表わすに、「勝れる」という語を以てし、彼が旧約的なるもの凡てに——天使に・モーセに・アロンに・犠牲に——優越せる者であることを示している。次に第二種の用語は、「既得にして未得なる」賜物の性格を表現する為に用いられた、邦訳語の「既に」と「未だ」という二つの副詞である。前者によって神の賜物の「既得的性格」を、後者によってその「未得的性格」を現わしている。即ち恩寵としての神の賜物は、先ず「所与」(立場)であり、しかして後「課題」(状態)となるのである。これはいう迄もなく、自然的発生的な過程と視方に対してその逆を行く「枠」である。自然的発生的な過程は「課題」あっての「所与」であり、追求するという課題を経てのみ、その目的が所与として獲得されるからである。処が聖書が指し示す神の賜物は、この自然的発生的過程に逆行するものとして与えられる。即ち神が人間に与える賜物は、課題を経て後に所与となるのではなくして、「所与」が先で「課題」はそれに続くものである。換言すれば、神の賜物は「既」に与えられてはいるが、然も「未だ」得られていないという性格をもつといわねば既ならない。

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第二章 教会書>第十五節 ヘブル書概説 7  終わり、次は第十五節 ヘブル書概説 8

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