第二章 第十五節 ヘブル書概説 2

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⁋本書簡の目的は近きに迫っていると考えられた迫害に対して、受け取り手なる一群の信仰者らをして、堪え忍びて信仰を堅持せしめんが為であると考えられる。筆者は彼らの過去における信仰と忍耐とを想起させて、

「されば大いなる報を受くべき汝らの確信を投げすつな」

と云い(十章三十五節)、

「我らは汝等がおのおの終まで前と同じ励みをあらわして全き望を保ち……人々に效わんことを求む」

といい(六章十一節)、

「また約束し給いし者は忠実なれば、我ら云いあらわす所の望をうごかさずして堅く守り……集会をやむる或る人の如くせず……ますます斯くの如くすべし」

と云っている(十章二十三節以下)。殊に

「我に属ける義人は、信仰によって生くべし。もし退かば、わが心これを喜ばじ」

と(十章三十八節)、筆者は自己の確信を表明すると共に、彼の読者の確信的に立たんことを要請している。
⁋この書簡の受け取り手なる一群の信仰者らが、如何なる地に在り、如何なる教会に属していたものなるかは、前述のように全く之を知ることはできないが、彼らの信仰的経歴と現状とは本書に散見せられる言及から、いくらか之を想定することができる。先ず彼らが福音を伝えられたのは、使徒または使徒的関係の人々によってではなく、第二世代の人々によってであった。しかしてそれは単なる教義の伝達としてではなく、ペンテコステ的証示を以て宣べられたものであった。

「この救は初め主によりて語り給いしものにして、聞きし者ども之を我らに確(たしか)うし、神また徴と不思議とさまざまの能力ある事と御旨のままに分ち与うる聖霊とをもて証を加えたまえり」

と云われているのは(二章三ー四節)、この事を示している。同時に斯く伝えられたにも拘らず、彼らの信仰的進歩は遅かったようである。

「之に就きて我ら多くの云うべき事あれど、汝ら聞くに鈍くなりたれば釈(と)き難し。なんじら時を経ること久しければ、教師となるべき者なるに、今また神の言の初歩を人より教えられざるを得ず」

と云われている(五章十一節以下)。従って筆者は彼らに対して、

「この故に我らはキリストの教の初歩に止まることなく、再び死にたる行為の悔改めと神に対する信仰との基、また各様のバブテスマと按手と死人の復活と永遠の審判との教の基を置かずして、完全に進むべし」

と強く勧めている(六章一ー二節)。然し斯く云われてはいるが、この一群の人々は実践面においては忠実であったらしく、それは彼らの過去の実績が示したようである。

「神は不義に在(いま)さねば、汝らの勤労と、前に聖徒に事え、今もなお之に事えて御名のために顕わしたる愛とを忘れ給うことなし」

と云われ (六章十節)、 更に進んで前述の賞讃の言が語られている(十章三十二ー四節)。

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第二章 教会書>第十五節 ヘブル書概説 2  終わり、次は第十五節 ヘブル書概説 3

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