第二章 第十五節 ヘブル書概説 1

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⁋ヘブル書は極めて直接的にして、且つ実際的なる奨励をなさんが為に、記された書簡である。本書簡はその筆者・宛名および形式の有する問題の為に、屢々(しばしば)書簡ならずして、一つの書簡的形体をもたせた、一般的奨励書(説教)なりとさえ考えられた。新約書中の——本書に似たるヨハネ第一書又はユダ書等を除き——他の書簡はその筆者が誰なるかが、この内容から知られるように記されている。然るに本書は何処にもその筆者を示すべき手懸りをもっていない。また本書の宛名は、唯だ「ヘブル人へ」To the Hebrews とあるのみで、それが教会なるか、または一部の人々なるかが明かでなく、むしろ象徴的呼称のひびきさえもっている。更に本書の形式をみると、他の書簡にみられるような冒頭の「挨拶」というものがなく、いきなり本文を始めていて、いわゆる書簡の形式をもっていない。唯だその結尾の処に結びの挨拶が述べられているだけである。これらの諸点が、上述のように本書を一般的奨励文書とみさせるようにしたものである。
⁋然し本書が一つの書簡であることは、本書の筆者と受け取り手との関係が直接的のそれであるのみならず、極めて親しいものであったことから見て、之を知ることができる。加之(しかのみならず)・本書の記された目的そのものがこの事を明瞭に示している。

「我らの為に祈れ…..われ速かに汝らに帰ることを得んために、汝らの祈らんことを求む」

とか、

「なんじら御光を受けしのち、苦難の大いなる戦闘に耐えし前の日を思い出でよ。或は誹謗(そしり)と患難とに遭いて観物(みせもの)にせられ、或は斯かることに遭う人の友となれり。また囚人となれる者を思いやり、永く存するもつとも勝れる所有の己にあるを知りて、我が所有を奪わるるをも喜びて忍びたり」

とか、

「なんじら時を経ること久しければ」

とか、

「集会をやむる或人の習慣の如くせず」

とかいうような言を見れば(十三章十八ー十九節・十章三十二ー三十四節・五章十二節・十章二十五節其他)、この事は明瞭である。然も本書の結尾にあるその別れの挨拶およびその中に述べられている、「我らの兄弟テモテ」に関する言及や、「イタリヤの人々」に就ての伝言などを見れば、本書がその現形において書簡的性格をもつことには議論の余地がない。

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第二章 教会書>第十五節 ヘブル書概説 1  終わり、次は第十五節 ヘブル書概説 2

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