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第二 信仰的飛躍の決断 1(十五節以下)
⁋この部分の冒頭の
「彼が暫時(ざんじ)なんじを離れしは、或は汝かれを永遠に保ち、もはや奴隷の如くせず、奴隷に勝って愛する兄弟の如くせん為なりしやも知るべからず」
という言は、この書簡全体の語勢と含蓄とを要約する頂点である(十五節)。この言で注意すべきは
「或は……為なりしやも知るべからず」
という表現の含蓄である。この言を解説すると、オネシモが汝の許を逃亡したという事は、如何にも悲しむべき出来事であった。然し彼が脱走し汝を暫(しば)し離れるようになったこの出来事は、反って一つの機会となって、もはやオネシモを世のいわゆる奴隷として扱わず、主に在りて永遠に愛する一人の兄弟として交わるという結果をもたらすのではないだろうか、という訴である。この「或は……為なりしやも知るべからず」という仮定法は、聖書の中に好んで用いられている表現であるが、是は要するに、摂理に対する信仰的仮定を表現するに最も適した形であるといえる。即ち是はオネシモの逃亡が、ピレモンとオネシモとの信仰に由る新しい交りに入る為の神の摂理となり得るのではないだろうか、という仮定法を表わす言である。然しそれが「摂理となる」為には、ピレモンがこれを信仰的に受け容れるという決断をしなければならない。
⁋聊(いささか)も摂理とは、信仰による受け取り直しの決断のない処には生起しないからである。然れば摂理とはそこに常に「在るもの」ではなく、摂理とは常に「成るもの」であるといわねばならない。個人の信仰的決断を媒介として摂理が「摂理する」のである。ピレモン対オネシモとの主人対奴隷という自然的つながりと自然的交際が、偶然としてではなく、神の栄光の為の必然に変えられるのは、主人たるピレモンの信仰的決断をまっという事である。此処にピレモンはオネシモに対する過去的の感情の一切を、摂理にまで高揚せしめられる為の決断を求められているのである。信仰とは実に「人的偶然」を「神的必然」として受け取り直す決断である。
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