第二章 第十四節ピレモン書概説 3

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第一  信仰的飛躍の要請 (二節ー十四節) 2

⁋(1)第一は・信仰的交際は常に自己超越的であり、自己充足的であってはならないということである。先ずビレモンに対しても、彼のなす善き業の目標は、ピレモン自身が人の前に崇拝せられる為でなく、善き業の主なるピレモンは隠されて、ピレモンをして善き業を為さしめつつ在るキリストに栄光が帰せられることを、その目標とすべきことが明示されている。それは

「願うところは、汝の信仰の交際の活動により、人々われらの中なる凡ての善き業を知って、栄光をキリストに帰するに至らんことなり」

という言に現われている(六節)。またパウロ自身としてもオネシモに対し、

「かれは我が心なり」

といい、 オネシモは彼にとって益ある者であり、彼をその許に留めおきピレモンに代ってパウロに事えてもらいたいとさえ思っている者である。然し彼は

「なんじの承諾を経ずして斯くするを好まざりき、是なんじの善の止むを得ざるに出でずして・心より出でんことを欲したればなり」

といい(十三節以下)、パウロ自身この事において自己充足を捨てている事実に注目せしめている。然ればビレモンの行為の動機も自己充足の為であってはならない。キリスト者の「善き業」は常に「証」としての意味しかもつべきではない。証とは証する者の凡てが隠されて、証せられる者即ちキリストが顕わにされることだからである。
⁋故に

「われキリストに在りて、汝になすべき事を、聊かも憚からず命じ得れど、寧ろ愛の故によりて汝にねがう」

と云われている如く(八節)、パウロの訴願は「キリストに在りて」の願であり、ピレモンとパウロとの交渉の頂点にはキリストが指し示されているのである。人間的感情からいって、ピレモンが自己の許から逃亡した奴隷を再びその家に迎え容れるという業は彼の側における多大の精神的負担と自己否定とを意味する。然ればキリストの名において為されるパウロからのこの訴は、ピレモンをして自己を満足せしめる為に之を拒否するか、あるいはキリストの栄光の為にこの訴を受け容れるかの二者選一を迫るものである。即ちそれは自己充足を選ぶか、自己超越を採るか、この何れかの二者選一である。

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第二章 教会書>第十四節ピレモン書概説 3  終わり、次は第十四節ピレモン書概説 4

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