第二章 第十三節テトス書概説 4

ホーム渡辺・岡村著書新約聖書各巻概説>第二章 教会書>第十三節テトス書概説

第二 聖霊的維新としての健全性 (三章一節—十一節)

⁋健全性は、善き業として表現さるべきものであるが、然しそれは断じて、人間的功績としての善き業ではない。選民イスラエルの失敗はこの点の誤認にあった。ロマ書にはこの事が

「彼ら(イスラエル)が神の為に熱心なることを証す。されどその熱心は知識によらざるなり。それは神の義を知らず、己の義を立てんとして、神の義に服わざればなり」

と云われ(十章二十三節)、それは

「信仰によらず、行為によりて追い求めたる故なり。彼ら(イスラエル)は躓く石に躓きたり」

といわれ(九章三十二節)、肉のイスラエルの失敗に照(てら)して、霊のイスラエルなる教会に対する警告とされている。故に本書は、善き業として表現さるべき健全性を教会に求めると同時に、この点において起り易い致命的混同に対して警戒を与える。
⁋本書は、聖霊に由らない生来の人間に善き業と見える事があるが、そんなものは健全性をもたないと云っている。それというのは、善き業として表現さるべき健全性は、聖霊に由る維新以下の何ものでもないからである。即ち聖霊を受ける前の人間はせいぜい

「愚かなるもの、順わぬ者、迷える者さまざまの慾と快楽とに事うるもの、悪意と嫉妬とをもて過すもの、憎むべ き者、また互に憎み合う者」

である(三章三節以下)。斯くの如き生来のままなる人間から、「善き業」は絶対に結果しない。

「されど我らの救主なる神の仁慈と人を愛したもう愛との顕われしとき、我らの行いし義の業にはよらで、唯その憐憫により、更生(うまれかわり)の洗と我らの救主イエス・キリストをもて、豊かに注ぎたもう聖霊による維新とにて我らを救い給えり」

と云われている如く、人間的「いさおし」としての業は否定されて、唯だ聖霊による維新が指し示されている。しかして聖霊による維新に由てのみ

「我らが其の恩恵によりて義とせられ、永遠の生命の望にしたがいて世嗣(よつぎ)と」

なること、しかしてその目的は

「神を信じたる者をして慎みて善き業を務めしめん為」

であると云われている。

結 語 (三章十二節—十五節)

⁋本書は最後に、テトスの代りとなるべき者をクレテに送るべきことを述べ、併せてテトスに ニコポリに行かんとしているパウロと、そこで会うように求めている。このテモテに代る者としてアルテマス・テキコ・ゼナスおよびアボロの名が記されている。此等のうち、アルテマスとゼナスとは、ここに録されているだけで、伝説は別として、彼等が如何なる人であったか知る由がない。テキコはテモテ後書にも言及せられ、アボロは当時有名な学者であって伝道者であったことが知られていた人物である(使徒行伝十八章二十四節以下・コリント前書一章十二節・三章四節以下等)。

ーーーー

第二章 教会書>第十三節テトス書概説 4  終わり、次は第十四節ピレモン書概説

ホーム渡辺・岡村著書新約聖書各巻概説第二章 教会書>第十三節テトス書概説 説 

 
 

コメントを残す

WordPress.com で次のようなサイトをデザイン
始めてみよう