第二章 第十二節テモテ後書概説 5

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第三  孤独に堪える強さ (四章一節—十八節)

⁋この部分においては、先ず

「われ神の前また・生ける者と死にたる者とを審かんとし給うキリスト・イエスの前にて・その顕現と御国とをおもいて厳かに汝に命ず」

という厳粛なる言を以てパウロのテモテに対する最後の言が語られている(四章一節)。即ちパウロは自己の最後の状況を記すことにて――一人在りて強き孤独に堪える強さが、如何なるものであるかを、若きテモテに教えている。
⁋この部分には第一に(一ー五節)、伝道者の生涯の在るべき姿が教えられている。それは「御言を宣べ伝える」ことであり、然もそれは「機を得るも機を得ざるも常にはげ」まなければならない。しかしてその具体的方法としては「責め・戒め・勧め」るという三つのことが語られている。若き役者テモテ自身としては

「汝は何事にも慎しみ、苦難を忍び、伝道者の業をなし汝の職を全うせよ。」

と命ぜられている。次に(六一八節)有名なパウロの死に直面して語られた凱旋の言が宣べられている。これこそ実に伝道者の最後の姿である。
⁋終に(九ー十八節)この死に直面せる彼の身辺の事情が詳しく書かれている。彼の周囲の多くは彼から離れ去り、彼の忠実なる弟子テトスも用事の為に他に遣わされ、「唯ルカのみ我ととに居るなり」といわれている。パウロはここで

「なんじ勉めて速かに我に来れ」

と記し、しかして

「汝マルコを連れて共に来れ、彼は職のために我に益あればなり」

と求めている。このマルコはパウロの公的紹介者であり、その有力なる後援者であった (使徒行伝九章二十七節以下・十一章二十五節以下)バルナバの従弟であった。彼の家はエルサレムにあって、その父は夙(はや)く死んだものとみえ、その母マリヤが主人であったらしく、この地の信仰者らは、常にこの家をその祈会の場所としていたようにみえる(同十二章十二節以下)。ユダヤ本土の饑饉に当り、その地の信仰者に対する寄附をエルサレムに齎(もたら)した、バルナバ及びサウロ(パウロ)が、アンテオケに帰るに際して、彼らはこのマルコを伴ったのであった(同十一章二十七ー三十節・十二章二十五節)。しかしてパウロとバルナバはその第一伝道旅行に当って、このマルコ(又の名ヨハネ)を補助者として伴ったが、パンフリアのペルガに到った時、ヨハネ・マルコは、一行と別れ、エルサレムに帰った (同十三章五節・十三節)。これは恐らくこの青年が父なき後の母の懐(ふとこ)ろ子であった為、旅行の困難に堪え得なかったことに依ったものであろう。処がパウロとバルナバが第二伝道旅行に出立せんとした時、バルナバは再びヨハネ・マルコを伴わんとし、パウロは之に反対した為、「激しき争論となりて」遂に二人が相別れ、バルナバはマルコとその故郷クプロに渡り、パウロはシラスを伴って旅行に出発した(同十五章二十六節以下)。斯くの如くパウロと別れたマルコは途中如何なる機縁があったものか、再びパウロの伝道補助者となり、コロサイ書が書かれた時にはパウロと共に獄中に在ったし、ピレモン書が書かれた時にもパウロと共に在った。しかしてこのパウロの最後の日において「汝マルコを連れて共に来れ」と、老使徒パウロから信頼される伝道者となっていたことがみられる。
⁋次にパウロはテモテに対して(本書四章十三節)、

「汝きたる時、わがトロアスにてカルポの許に遺しおきたる外衣を携えきたれ、また書物、殊に羊皮紙のものを携えきたれ」

と求めている。ここにこの書簡の読者は、最後の日のパウロに、この心的余裕のあったことを見ることができる。この書物はいうまでもなく聖書ではない。恐らく最後の朝まで彼の座右におかれ、彼に読まれたものであろう。
⁋この部分で読者は二つの言を読んで、この「一人在りて強い」人パウロの心の奥を知ることができる。

「わが始の弁明のとき誰も我を助けず、みな我を棄てたり」

という言がその一で、

「されど主われと共に在して我を強めたまえり」

という言がその二である。この凡ゆる人から棄て去られた時・ここにこそ福音が人間に求める強さの最高の試金石が提示されている。一人で弱い人も、徒党による時強くなる。独り在る時は恐かな人も、背景の故にものがいえる身となるのがこの世の常である。然し福音の世界は、個人が群衆のかげにかくれることを絶対に許さない。「独り在りて強い人」のみが、福音の要請する強き人である。孤独に堪える強さこそ、福音の求める人間の強さの最高の試金石である。真理より耳を遠ざける世に在って、真理に堪え抜く強さをもつ人の運命は必然的に孤独である。従って真理に堪える強さは即ち孤独に堪える強さを予想する。然しこの強さは、繰り返えしていうが、人間的意地からは出て来ない。
⁋前掲の第二の言において敍上の孤独に堪え、苦難に堪え、真理に堪えるということの秘訣が語られている。「独り在りて強い人」とは、「主が個に在りて強い人」に他ならない。他の同僚に強められている時は、真に「主と借(とも)に在る時」ではない。群衆のかげにかくれている人は、断じて「主と借に在る」人ではない。神の言の自由はパウロによれば、彼が

「福音のために苦難を受けて、悪人のごとく繋(つな)がるるに至」

って己が自由を全く奪われた時、初めて確信されたそれであった(二章九節)。その如く、「主が共に在る確信」とその「強さ」とは、世を愛する人々に棄てられ、全く孤独にされた時与えられる確信と強さである。
⁋ここに、福音が信仰者に求める「強さ」の逆説性が示されている。福音の為の苦難に堪える強さが、人間の内在的の意地とか強さに拠るものでないと記したのはこの意味である。「神の自由」は、我が自由の奪われる時初めて顕わにされ、「主と共に在る強さ」は、 我が凡ての人から棄てられて初めて知らされる確信だからである。

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第二章 教会書>第十二節テモテ後書概説 5 終わり、次は第十三節テトス書概説 1

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