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第一 苦難に堪える強さ (一章三節ー二章十三節)
⁋旧約の預言者は屡々(しばしば)彼が語らせられる預言の「しるし」(象徴・兆)として立つべく命ぜられている。イザヤは
「視よ・われとエホバが我にたまいたる子らとはイスラエルのうちの予兆(しるし)なり、奇(くす)しき標(かた)なり」
といっている(イザヤ書八章十八節)。この「しるし」といい、「かた」といい、 それは他の者を指し示す役目を担ったものであり、他の者に就て証(あか)しするものである。福音の語られる世に対して、新約の教会の役者パウロもまた、 福音の宿命の苦難の権化 (こんげ)として立つのである。役者テモテもまた福音の役者として、 福音の為の苦難を忍ばねばならない。然ればパウロは若き役者テモテに
「されば汝われらの主の証をなす事と主の囚人(めしうど)たる我とを耻(はじ)とすな、ただ神の能力に随(したが)いて福音のために我とともに苦難を忍べ」
と勧めている(一章八節以下)。福音を担う者に先ず要請されるのは、福音の為の苦難に堪え抜く強靱さである。
⁋しかしこの苦難に堪え抜く強さは、人間の生れつきのままの強さとか、いわゆる意地というようなものではない。パウロは
「わが子よ・汝キリスト・イエスにある恩恵(めぐみ)によりて強かれ」
といっている(二章一節)。 福音の為の苦難に堪えしむるものは「キリスト・イエスの恩恵による強さ」である。その恩恵に就て本書は次の如く述べている。
「神は我らを救い、聖なる召をもて召し給えり。是われらの行為に由るにあらず、神の御旨にて創世の前にキリスト・イエスをもて我らに賜いし恩恵に由るなり。この恩恵は今われらの救主キリスト・イエスの現われ給うに因りて顕われたり。彼は死をほろぼし、福音をもて生命と朽ちざる事とを明かに為給えり」
と(一章九節以下)。凡て恩恵に由ることは、「創世の前から」という特殊な由来をもつといえる。エペソ書は教会の選みに就いて
「我らの主イエス・キリストの父なる神、かれはキリストに由りて霊のもろもろの祝福をもて天の処にて我らを祝し……世の創の前より我等をキリストの中に選」
み給うたと述べている(一章三節以下)。その教会の役者の召命の自覚もこれに循ずる如く、彼の在り方一切もまたこの「創世の前」に起源をもつキリスト・イエスの恩恵において再確認されなければならない。即ち福音の為の役者の苦難に堪える強さも、彼における内在的な意地とか内在的なねばり強さであってはならない。それは「死を亡ぼし、生命と朽ちざる事」とを福音に由て明かにし給うたキリスト・イエスの超越的能力以下のものであってはならないのである(同十節)。
⁋然しここで注意すべきことは「キリスト・イエスにある恩恵による強さ」とは、決して下からの人間的努力を零にする事ではないという事である。それは本書が「わが子よ、汝キリストイエスにあるめくみによりて強かれ」と命じて、直くあとに
「汝キリスト・イエスのよき兵卒として我とともに苦難を忍べ」
と命じている処によっても明かである(二章三節)。これは何を意味するであろうか?キリストの恩寵による強さは、キリストにおける能力が原動力となって下からの努力を全うせしめる確かさであるという意味である。此処にパウロは「兵卒・農夫・ 競技者」の三者を例とし、「生活のために纏(まつ)わるる事な」き兵卒によって「専念」を、「労する農夫」によって「努力」を、「法に随いて競う」競技者によって「合法」を教えている。即ち第一が「献身」を、第二が「精進」を、第三が「知識」を象徴している。伝道者はその一によって「募(つの)れる者を喜ば」すことが出来、その二によってその「分配」即ち効果を得させられ、その三によって「冠冕(かむり)」を与えられる。パウロは屢(しばし)ばこの三点に言及し、「専念」に就ては
「唯だこの一事を務む」
といい(ピリピ書三章十三節)、「精進」に就ては
「我が身を以てキリストの患難の欠けたるを補う」
といい(コロサイ書一章二十四節)、「合法」に就ては
「我が拳闘するは空を撃つが如きにあらず」
といっている(コリント前書九章六節)。之によって彼が如何にこの三点を、伝道者の生涯に対して重要視したかがわかる。殊にこの第三の合法性と・その法則を知る為の「知識」の必要とは、彼がその同胞の「知識によらざる熱心」を通して痛感した事であった(ロマ書十章二節)。
⁋実にキリスト・イエスに在る恩寵に由る強さとは、我が内在的の能力や意地は否定されて初めて顕わにされるキリストの能力の絶大さである。キリストと共に死んで、彼と共に生きるという「力」に従って技を競い、苦闘しつづけたパウロの告白が
「我はこの福音のために苦難を受けて悪人のごとくつながるるに至れり、然れど神の言はつながれたるにあらず」
という言である(同九節)。苦難に堪える強さとは、我の能力が限界点に達し、我の自由が全く奪われて知らされる「神の言の自由」の体認から生れるものでなければならない。
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第二章 教会書>第十二節テモテ後書概説 3 終わり、次は第十二節テモテ後書概説 4
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