第二章 第十二節テモテ後書概説 2

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⁋要するに本書は、教会が苦難に耐える強さは、即ち教会が真理に堪える強さに比例すると主張する。この書の差し出し人パウロは今やこの世を去らんとしている。

「我は今・供物として血をそそがんとす、わが去るべき時は近づけり」

といっている如く、福音の故にパウロは逆境のどん底におかれていて、然も

「之がために我これらの苦難に遭う。されど之を耻(はじ)とせず、わが依頼(よりたの)む者を知り、且つ我が委ねたる者を、かの日に至るまで守り得給うことを確信すればなり」

といい得ている(一章十二節)。然し福音の為の苦難である限り、その苦難は、福音の真理がそれを場として新たに確認される契機となる。パウロは自らが苦難の為に縛(つな)がれて初めて、縛がれざる神の言の真理の「自由」を悟らしめられた。それを告白したのがパウロの

「我はこの福音のために 苦難(くるしみ)を受けて、悪人のごとくつながるるに至れり。然れど神の言はつながれたるにあらず」

という言である(二章九節)。教会の苦難に堪える在り方も、福音の真理がその中において反って新しく確認されるようなものでなければならない。教会が苦難に耐える強さは教会が真理に堪える強さに比例するというのはこの意味である。これこそ「基督教が今日に至るまで存続し得たのは、教会が神学に堪え得たからである」といわれる所以である。
⁋他方・キリストの福音の担い手が常に苦難をその宿命とするということは、取りも直さず福音の語らるべき対象である世が、この福音の真理に堪え得ないという事を示している。

「世は、彼らを置くに堪えず」

とはこの事をいったものである(ヘブル書十一章三十八節)。 これが即ち、光に来ることを避ける世の暗さである。

「人々健全なる教に堪えず、耳かゆくして私慾(しよく)のまにまに己がために教師を増し加え、耳を真理より背けて昔話に移るとき来らん」

と録されている如くである(四章三節)。生来の人間は福音の真理に堪え得ない。否・イエスの許に集った弟子らさえ、その例にもれなかった。

「我なお汝らに告ぐべきことあまたあれど、今なんじら得耐えず。然れど彼すなわち真理の御霊きたらん時、 なんじらを導きて真理をことごとく悟らしめん」

とは、主の弟子らに対する決別の辞であった(ヨハネ伝十六章十二ー三節)。この意味において真理の御霊なる聖霊の働く教会は、この真理に「堪える者」とせられた団体である。教会が幾多の外界からの追害と挑戦をうけつつ、これを耐え抜いて存続し得た強さの秘袂は、究極的に教会がこの真理の御霊なる聖霊の働きに由て真理に堪える者とされている処にあるといわねばならない。本書は次の如く区分される。

挨  拶 (一章一―二節)
第一  伝道者の苦難に堪える強さ (一章三節―二章十三節)
第二  伝道者の真理に堪える強さ (二章十四節―三章十七節)
第三  伝道者の孤独に堪える強さ (四章一節ー同十八節)
結  語 (四章十九節ー二十二節)

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第二章 教会書>第十二節テモテ後書概説 2 終わり、次は第十二節テモテ後書概説 3

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