第二章 第十節テサロニケ後書概説 3

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第二 再臨を予告する事 (二章一節ー十二節)

⁋この部分の冒頭には

「兄弟よ・我らの主イエス・キリストの来り給うこと、又われらが主の許に集うことに就きては、汝らに求む。或は霊により・或は言により・或は我等より出でし如き書により・主の日すでに来れりとて容易く心を動かし、かつ驚かざらん事を、誰が如何にすとも欺かるな」

という前置きを述べて、主の再臨に先き立って起る予告的出来事に就て記している(同一節以下)。これはいう迄もなく主の再臨に対して或る種の人々の間に生起し易い狂熱的態度を戒める言である。再臨に対する確信とこれに対する熱狂的態度とは混同され易い。本書はこれを警告する為、再臨を予告する出来事を教え示さんとする。これを前項との関係でいいあらわすと、前項では絶対無比なる再臨の主の能力が語られたが、この項ではその主の絶大なる能力が「何に対して」それを顕わにするかという契機が述べられている。その契機とはいうまでもなく、反キリストであり・その背教である。即ち

「その日の前に背教の事あり、不法の人、すなわち滅亡の子あらわれざるを得ず、彼はすべて神と称する者、および人の拝む者に逆らい、此等よりも己れを高くし、遂に神の聖所に坐し、己れを神として見する者なり」

と述べられている(同三節以下)。
⁋この反キリストの出現の終末的顕現に関しては、マタイ伝も主イエスの言として記録している (マタイ伝二十四章十五節)。この記録はダニエル書の記事の意味している処の引照である。即ちダニエル書には

「彼より腕(うで)おこりて聖所すなわち堅城を汚し、常供(じょうく)の物をとり除かせ、かつ残暴可悪者(あらすにくむべきもの)を立てん……この主その意のままに事をおこない、万の神にこえて自己を高くし、自己を大いにし神々の神たる者にむかいて大言を吐き等 して忿怒(ふんぬ)の息む時までその志を得ん」

と、反キリストの本質が描かれている(十一章三十一節以下)。創世記は被造者なる人間が「神の如くな」らんとし、創造主の位置に身をおかんとして、創造の秩序を破壊したことに人間の原罪の解明をみている。これ、預言者的に採りあげているのがダニエル書である。聖書はその全体を貫いて最後の審判に至るまで、人間の「神の如くならん」とする自己神化の欲求を由来せしめている者を、「あらすにくむべき者」即ち「反キリスト」 として人格化している。この自己神化の主動者を、再臨の主の背景において「反キリスト」として彷彿たらしめているのがテサロニケ後書である。この反キリストの特色は、神に背反し自己神化を以てその特徴とし、遂に聖所冒瀆を企てる。現在はその反キリストの力は或る他の力に由て阻止されているが、その阻止する者が取り除かれる時がやがて来る。その時は「不法の者」が顕われて、その全力を振い尽す(二章六節)。これ等の出来事こそ主の再臨を予告する出来事である。しかして主はその時再臨し給い、この反キリストを

「御口の気息(いき)をもて彼を殺し、降臨の輝耀(かがやき)をもて」

絶滅し給うのである(二章八節以下)。
⁋以上が再臨の主に先行して起る出来事である。キリストと教会のいやはての敵なる「反キリスト」が、その全力を振い尽すことを許された後初めて、再臨の主の絶大なる能力がそれを契機として顕わにされるのである。然し再臨のキリストの絶大なる能力は、その反キリストの絶滅の為に、只その「御口の気息(いき)と降臨の輝」のみで事足りるという処に注目すべきである。

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第二章 教会書>第十節テサロニケ後書概説 3 終わり、次は第十節テサロニケ後書概説 4

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