第二章 第十節テサロニケ後書概説 2

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第一 再臨の意味する処 (一章三節―十二節)

⁋本書もまた前書の如くその冒頭に

「然れば我らは汝らが忍べる凡ての迫害と患難との中にありて保ちたる忍耐と信仰とを神の諸教会の間に誇る」

という、テサロニケ教会の信者を賞賛する言を以て始められている。しかして彼らの今の患難は、彼らをして「神の国」に適わしき者とするに役立つものであると告げる(同五節)。

「これ神の正しき審判の兆にして、汝らが神の国に相応しき者とならん為なり。今その御国のために苦難を受く」

と記されている。これに続いて、この神の正しさが今は隠されているが、主の再臨の時にはそれが顕わにせられる事を宣べ、再臨の意味する処に就て次の如く記している。

「汝らに患難を加する者に患難をもて報い、患難を受くる汝らに、我らと共に安息をもて報い給うは、神の正しき事なり。即ち主イエス・焔(ほのお)の中にその能力の御使たちと共に天より顕われ、神を知らぬ者と我らの主イエスの福音に服わぬ者とに報をなし給うとき、斯かる者どもは主の顔とその能力の栄光とを離れて、限りなき滅亡の刑罰を受くべし」

と述べられ (同六節以下)、再臨が教会の 迫害者及び福音の否定者に対し, てもつ意味を明示している。
⁋然し主の再臨は、主に属する人々に対しては「主おのが聖徒によりて崇められ、凡ての信ずる者によりて讃められんとして来り給う日」である。再臨の意味する処とは、斯くの如き、能力の主の正しき「審判者としての顕現」である。それ故、斯くの如き能力ある主が単に再臨の主でなく、現在の教会の主であるという処に注意すべきである。このことを述べるのが

「これに就きて我ら常に汝らのために祈るは、我らの神の汝等をして召に通う者となし、能力をもて汝らの凡て善に就ける願と信仰の業とを成就せしめ給わんことなり」

という言である(同十一節以下)。

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第二章 教会書>第十節テサロニケ後書概説 2 終わり、次は第十節テサロニケ後書概説 3

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