第二章 第九節テサロニケ前書概説 4

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第二 再臨への潔め (四章ー五章二十四節)

⁋教会が患難に定められているのは、結局その患難に由て教会をして主の再臨を俟望せしめ、しかしてこれをいよいよ深からしめる為である(四章三節以下)。

「神の我らを招き給いしは、汚穢(けがれ)を行わしめん為にあらず、潔(きよ)からしめん為なり」

と述べられている如くである(四章七節)。然しこの教会に対する「潔くあれ」という命令は、本来的に潔からざる教会に対して潔き性格を獲得せよというのではない。教会はエペソ書にも明示されている如く、先在的に潔いものである。然ればキリストに在りてこの「立場」を、教会の日常的「状態」とするよう努力せよという命令である事を知らねばならない。
⁋然れば教会がその患難に処する態度も主の再臨俟望の意識から反省さるべきである。この再臨待望の望こそ、普通史に立つ教会をして、それを超えた救拯史を指し示させるものだからである。再臨の時には

「キリストにある死人まず甦えり、後に生きて存れる我らは彼らと共に雲のうちに取り去られ、空中にて主を迎え、斯くて主と共に居る」

ということが実現する(四章十六節以下)。この事実は確実であるが、その時と期に就ては、それは

「盗人の夜きたるが如くに来ることを」

教会は知っている(五章二節)。ここに再臨俟望に生きる教会の緊張的な時間意識が指摘されている。時間意識と倫理生活とは本来二にして一なるものである。盗人の夜きたるが如く来臨する主の日 (再臨)に向って生きる教会の時間意識が、 教会をして信仰的に眠らしめず、従ってこれを潔く保たしめるのである。さればこの教会の生きる時間意識と、世俗の時間意識とが次の如く対照されている。

「人々の、平和無事なりと云うほどに、滅亡にわかに彼らの上に来らん、姙める婦に産の苦痛の臨むがごとし、必ずのがるることを得じ。されど兄弟よ汝らは暗に居らざれば、盗人の来るごとく其の日なんじらに追い及くことなし。それ汝等はみな光の子供なり。我らは夜につく者にあらず、暗につく者にあらず、されば他の人のごとく眠るべからず、目を覚して慎しむべし。眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜ようなり。されど我らは昼につく者なれば、信仰と愛との胸当てをつけ、救の望の兜をかむりて慎しむべし」

と記されている(五章三節以下)。この緊張的俟望を真にそれたらしめる下からの契機は思難である。それ故教会はあくまでいさぎよくこの患難に徹すべく命ぜられている。そは患難こそ地上の教会をして主の再臨を深刻に俟望せしめ、その深刻な俟望のみが、これをして自らを潔からしめ るからである。

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第二章 教会書>第九節テサロニケ前書概説 4 終わり、次は第十節テサロニケ後書概説 1

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