第二章 第八節 コロサイ書概説8

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第三 教会の首の投映 (三章五節ー四章)

⁋教会の首なるキリストは、唯一の

「潔く瑕(きず)なき・責むべき所なき」

神の像であった(一章十五節)。 然しその首の全き事が、被造者のそれとなるのは、ひたすら教会を場とすべきであった。それは何故であろうか? それは教会という有機体において「のみ」、 首の全がその股た る個に投映するからである。

「この新しき人は、之を造り給いしものの像に循い、いよいよ新たになりて知識に至るなり」

という言は(三章十節) この投映という出来事の解明である。即ちこの教会はイスラエルの遺残者(のこりびと)性を成就するキリストをその首とする故に、旧約のそれに対応する「神の選民」であり、「聖なる者また愛せらるる者」である(三章十二節)。
⁋然もこの首なるキリストの全き像の投映は、個々の肢の位置を離れてはあり得ない。「或は位・ あるいは支配」も・凡てが「キリストの為に」という目的と方向と秩序とをもつが故に、教会の個々の肢たる者は、その置かれた位置において力を尽すべく迫られる。故に

「僕たる者は凡ての事みな肉につける主人にしたがえ」

と勧められ (同二十二節)、「人に事うること」においてそ のまま「主キリストに事える」者であるといわれる(同二十四節)。 本書の終には、多くの教会の役者の名が挙げられているが、それらは凡て「忠実なること」「心を労し・力を尽す者」という共通的特徴が顕著である事も、本書が指示する他力即自力の緊張性を反映する事柄として受けとられる。

註・本書第二章八節の「世の小学」(the rudiments of the world – to stoicheia tou kosmou)という語は近代になって全く新しい解釈を附されるようになった。此の「小学」と訳されている語はガラテヤ書第四章三節及び九節にも記されている語で、「アルファベットの文字」という意味の語である。従って極く初歩の教の意味に解されてきた。処が近代になって此の語は「霊」・「天使」・「神」等の意味をもつといわれるようになってきた。然し是は向お決定的とは云えないようである。他の機会にも述べたように(渡辺善太著「聖書論第二巻・聖書解釈論」第二章参照・新教出版社版)文献的解釈に於ては如何なる新説を用いようとも研究者の自由だが、正典的解釈に於ては、その新説が学界の略ぼ定説となった時に——その時はもはや新説ではなくなるが——初めて之を用うべきである。此の語の問題に就ては、邦語では・山谷省吾著「新約聖書新訳と解釈」第一巻二〇一一四頁参照、英語では E. De Witt Burton:The Epistle to the Galatians ICC, 1920, pp. 510ff. を参照せられたい。

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第二章 教会書>第八節 コロサイ書概説8 終わり、次は第九節テサロニケ前書概説1

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