第二章 第八節 コロサイ書概説7

ホーム渡辺・岡村著書新約聖書各巻概説>第二章 教会書>第八節 コロサイ書概説説

第二 教会の首の充足 (二章ー三章四節) 2

⁋然しこの否定は人間の自力で為し得る処ではない。それは人間の古き自我を葬り、新しくキリストと共に甦えらせ給う神の「はたらき」を信ずる決断以外の何ものでもない。

「汝らバブテスマを受けしとき、彼と共に葬られ、又かれを死人の中より甦えらせ給いし神の活動を信ずるによりて、彼と共に甦えらせられたり」

と記されている所以である(同十二節以下)。この我々を否定し・肯定する神の絶対的能力に対する信頼のにぶる処、コロサイ人の如く

「巧(たくみ)なる言を以て人に欺かれる」

という危険が生じてくる (同四節)。
⁋この「キリストと共に葬られ、キリストと共に甦えらせられる」という事は、更に「見ゆる所によらず、見ぬ物を真実とする」という逆説を意味している。信仰とは実に

「見ゆる所によらず、信仰によりて歩」

むことである(コリント後書五章七節)。然もこの部分では信仰のこの逆說的構造が、キリストを首とする教会において、初めて充全に活かさるべき構造として述べられている。即ち教会という有機体の首に属する者にのみ、「見ゆる処によらず・見ぬものを真実とする」という事が具現する。「殊更に謙遜をよそおい・御使を拝する者」等の特徴は、

「見し所のものに基づき、肉の念に随いて徒らに誇り、首に属くことを為ざるなり」

と述べられている(二章十八ー九節)。 教会という有機体に属さぬ者の在り方が、見し処に基き、見ゆる肉の念に捕われているのは、恰度教会に速る者の在り方と正反対の本質である。何故ならキリスト を首とする教会に属する者は、

「見ゆる罪を葬りつつ・見えざるキリストの全きを真実とする」

からである(二章十二節)。前述の如く、教会の首なるキリストの充足は、その教会の個々の肢の、充足であり、首なるキリストの凡ての智識と宝とは、その肢たる個々の者の宝であるといわれる時、そこには斯くの如き逆說がその基底となっている事を知らなければならない。即ちこの個においては「見ゆる処に由らず、見えざるものを真実とする」決断が要請されている事を銘記しなければならない。

ーーーー

第二章 教会書>第八節 コロサイ書概説7 終わり、次は第八節 コロサイ書概説8

ホーム渡辺・岡村著書新約聖書各巻概説第二章 教会書第八節 コロサイ書概説 

 
 

コメントを残す

WordPress.com で次のようなサイトをデザイン
始めてみよう