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第二 教会の首の充足 (二章ー三章四節) 2
⁋結論的にいえば、コロサイ教会の人々が斯くの如き誘惑にひかれるのは、教会の首なるキリストが、既に
「我らを責むる規(のり)の証書すなわち我らに逆う証書を塗り扶(け)し、之を中間より取り去りて十字架につけ、政治(まつりごと)と権威とをはぎてこれを公然に示し、十字架によりて凱旋し給」
うたことを認識していないからである(同十四―十五節)。それ故にそのキリストは単に我らに逆い、 我らを責めるものから 我らを絶対的に解放し給うたのみでなく、キリストの「充足」が我ら(教会の肢)の「充足」として投映される途を開き給いし事に注意を喚起する。即ち
「全体は・この首によりて節々維々(ふしぶしすじすじ)に助けられ、相連り、神の育てにて生長する」
事を可能ならしめ給うたのである(同十九節)。従って首なるキリストの満ち足りてあることは、その有機体なる個々の肢の満ち足りてあることであり、首なるキリストにかくれある知恵と知識との凡ての宝は、その有機体なる教会の個々の肢の宝である。有機体においては、全体の首の凡ては必然的に、その個々の部分に投映するからである。
⁋ただ然しそれは一つの絶対的条件の下においてである事を知らねばならない。その絶対的条件とは
「首なるキリストに在りて」
という事である。
「汝らキリスト・イエスを主として受けたるにより、 其のごとく彼に在りて歩め」
といわれ(同六節)、
「汝らは彼に在りて満ち足れるなり」
といわれ(同十節)、
「全体は此の首によりて節々維々(ふしぶしすじすじ)に助けられ」
といわれている如くである(同十九節)。然らばこの「キリストに在る」ということは如何なることであろうか?この部分の叙述に依ると、キリストに在るという事は「キリストの割礼を受ける」という事である (同十一節)。キリストの割礼とは他でもない、
「キリストと共に葬られ、キリストと共に甦えらせられる」
という事である。従ってこの割礼とは、キリストを「一切」とし、All とする事に由って、他の凡てを「無」とし、Nothing とする決断である。他の絶対的否定に由ってのみ成り立っ一の絶対的肯定である。
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