第二章 第八節 コロサイ書概説5

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第二 教会の首の充足 (二章ー三章四節) 1

⁋第一項に、教会の首なるキリストは、神の全き像であることを述べたが、この部分では、その神の全き像は、如何なる意味において充全であるかを更に分析的に述べている。パウロはコロサイ人の中に

「恐らくはキリストに従わずして人の言伝(いいつたえ)と世の小学とに従い、 人を惑わす虚(むな)しき哲学をもて奪い去られる者」

のある事を知っていた(二章八節)。 それ故彼はここに教会の肢(てあし)たる者の絶対的充足を、 教会の首なるキリストの充足から論証する。

「汝らは 彼 (キリスト)に在りて満ち足れるなり」

とはその訴の中心である (同十節)。
⁋先ずここにパウロは、彼がコロサイの教会の人々及びラオデキヤの人々、その他凡て未知の教会員の為に、如何に心を砕いているかを述べ、

「斯(か)く苦心するは、彼らが心慰められ、愛をもて相列(あいつらな)り、全きさとりの富を得て、神の奥義なるキリストを知らん為なり、キリストには知恵と知識との凡ての宝蔵(たからかく)れあり」

と述べ(同二ー三節)、教会の首なるキリストの奥義を知ることは、即ち教会の首なるキリストの充足に与かることであると教えている。教会の首なるキリストは絶対的具足者であって、如何なる意味においても外なるものの補いを必要としないというのである。これこそ

「それ神の満ち足れる徳はことごとく形体をなしてキリストに宿れり」

と 記される所以である(同九節)。されば教会に連る者に於ける欠陥は、要するに教会の首なるキリストの絶対的充全なる事を自覚しない処に帰因していると云わねばならない。
⁋コロサイ教会の人々の危険は、第一に

「人の言伝(いいつたえ)と世の小学と・虚しき哲学」

によるという、 前述の異端思想の誘惑であった。「人の言伝」とは、伝統の固定化せるものであり、これに拠るとは伝統を絶対的規準として凡てをその枠にはめ込まんとする立場を意味する。次に「世の小学」といわれているのは、この世の知識と知恵とを規準とし、生れつきのままの人間の自然的理性の立場を絶対として、神の知恵から自己を遠ざける智的欺瞞者を指している。また虚しき哲学といわれているのは、キリストの神性及び贖罪の完全性を否定せしめる如きグノーシス (霊智主義)的な哲学の如きを指している。
⁋コロサイ教会の第二の危険は、ユダヤ的律法主義や・禁欲主義・天使崇拝等の齋(もた)らす影響である。これこそ

「然れば汝ら食物あるいは飲物につき、祭あるいは月朔(ついたち)あるいは安息日の事につきて、誰にも審かるな。此等はみな来らんとする者の影にして、其の本体はキリ ストに属(つ)けり。殊更に謙遜をよそおい、御使を拝する者に汝らの褒美を奪わるな」

と警告され る所以である(同十六節以下)。

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第二章 教会書>第八節 コロサイ書概説5 終わり、次は第八節 コロサイ書概説 6

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