第二章 第八節 コロサイ書概説4

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第一教会の首(あたま)の奥義 (一章) 2

⁋さて創造の秩序においては、全被造物なる個はその「由(より)て以(もっ)て造られた全(すべて)」なるロゴスを映す位置と方向とを与えられていたのであり、全被造物は全なるロゴスを存在の目的として各個に映し返すべく造られていたのである(ヨハネ伝一章一節以下・エペソ書一章二十三節参照)。然しこの 、、全被造物は、創造の秩序が人間の堕落に際して破壊されて以来、暗黒の権威の支配に自らを委ねるものとなった。これが

「父は我らを暗黒の権威より救い出して、その愛しみ給う御子の国に遷(うつ)し」

給わねばならなかった所以である(十三節)。この暗黒の支配下に在る全被造物と創造主なる神との和らぎは、「潔く瑕なく完き羔羊の血に」拠らなければならないことは、旧約のレビ記にも明示されている。これが全被造物の贖罪は、「凡ての満ち足れる徳を宿す」全き神の像なるキリストに由らなければならない所以である。この事を示すのが

「神は凡ての満ち足れる徳を彼に宿して、その十字架の血によりて平和をなし、或は地にあるもの、或は天にあるもの万の物をして己と和がしむるを善しと為給いたればなり」

という言である(十九ー二十節)。

⁋「歴代歷代かくれて今神の聖徒に顕われたる奥義」

とはこれである。即ち前述せし如く、全が個に投映されて、個が全を己の「由て以て造られた全」として映し返えすことである。だがこの投映関係の回復は唯だ一つの条件においてしか為(なさ)されない。その唯だ一つの条件が、神の知恵において計画されていた——それが教会であり、教会こそこの両者の投映関係の回復の「鍵」が委ねられている場となるというのである。即ち万物の首としての全なるキリストが、教会と有機的関係に入り給うという事である。それはキリストを首とする有機体においてこそ初めて首なる全と、その体なる個の間に、失われし投映関係が回復するからである。その時初めて全被造物は「みな彼によりて造られ、彼のために造られた」本来性を見出さしめられるのである。キリストが教会の首となる時、その首なるキリストの全き像が体なる教会の個々の肢に投映される事が可能となる。それが有機体なるものの構造であり・約束だからである。これこそ 「此の奥義は汝らの中に在すキリストにして栄光の望なり」と記されている所以である (一章 二十七節)。これは教会の首なる奥義キリストはそのまま汝ら——教会の肢の中に投映されているのだという意味であって、首はその体なる全部分に浸透しかつ投映するのである。
⁋それ故に首なるキリストの全き像は、もはや第三者的に傍観すべき対象ではない。首なるキリストの全きはその体なる肢(てあし)の全きとなり、首なるキリストの意志はこの体なる肢のそれとなる。故に、パウロの告白は

「我らは此のキリストを伝え、知恵を尽して凡ての人を訓戒し、凡ての人を教う。これ凡ての人をしてキリストに在り、全くなりて神の前に立つことを得しめん為 なり。我之がために我が衷に能力をもて働き給うものの活動にしたがい、力を尽して労するなり」

となる。キリスト教は単なる他力の宗教でもなければ、単なる自力の宗教でもない。他力即自力という緊張的構造こそ、このコロサイ書の開示する福音の倫理であり、正典の指し示す信仰生活の原理である。エペソ書と等しくコロサイ書も、教会がその本質とすべき「潔く瑕なきこと」を強調するが、エペソ書はこの教会の「潔く瑕なきこと」を「天的既決定」という意味において強調するのに対し、コロサイ書はこの「既得」のものを、「獲得」せんが為の条件を次の如く要請している。即ち

「汝ら若(も)し信仰に止(とどま)り、之に基(もとず)きて堅く立ち福音の望より移らずば斯(か)く為(せ)らるることを得(う)べし」

と附け加えている。以上においてコロサイ書は、宇宙の救拯が全き神の像なるキリストをその首とする教会を必然とする理由を明かにしたといえる。

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第二章 教会書>第八節 コロサイ書概説4 終わり、次は第八節 コロサイ書概説 5

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