第二章 第八節 コロサイ書概説3

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⁋この主張をもつ両書が正典の中に近く配列されていることによって吾人は、次のことを知らされる。即ちエペソ書の語る教会の神的決定に基く「確さ」は、その中ではもはや個人の主体的意志も入る余地のないような機械的に造られた世界を意味しないという事である。それでは この神的決定は個人の主体性に対して如何なる関係をもつか。この問に答えるのが、前掲のコロサイ書の

「われ之がために我が衷(うち)に能力をもて働き給うものの活動にしたがい、力を尽して労するなり」

という言である。ここに神的意志と人的意志——神的決定と人的決断との正しい結びつきが指示された。然もコロサイ書は、この神的意志と人的意志との連関は、キリストがその体なる教会の「首」で在すことにおいてのみ具現する連関であると主張する。本書は次の三区分に分たれる。

第一 教会の首の奥義(一章)
第二 教会の首の充足 (二章一節―三章四節)
第三 教会の首の投映 (三章五節ー六章)

第一教会の首の奥義 (一章) 1

⁋この書簡の最初には、コロサイ教会が聖徒に対して示している愛を感謝し、特に福音の為忠実なる教会の役者エパフラスを賞(ほ)め、

「この故に我らこの事を聞きし日より汝等のために絶えず祈り、かつ求むるは、汝ら霊のもろもろの知恵とさとりをもて神の御意を具(つぶ)さに知り………. しかして我らを光にある聖徒の嗣業に与かるに足る者とし給いし父に感謝せん事なり」

と述べている。 しかして本論に入り、「教会の首」としてのキリストの奥義に就て論じている。 キリストは見得べからざる「神の像」(アイコーン)であり、 凡ての満ち足れる徳を宿す全き神の像である(一章十五節)。その全き像なるキリストが「教会の首」であり、

「而して彼はその体なる教会の首なり」

と記されている(一章十八節)。
⁋続いてこの部分には、この教会の首なるキリストが、全被造物に対してもつ関係が述べられている。先ず第一に・教会の首なるキリストは万物に対して「先在し給う」。

「彼は見得べからざる神の像にして万の造られし物の先に生れ給える者なり」

といわれている(十五節)。第二に・教会の首なるキリストは万物の創造者である。

「万の物は彼によりて造らる、天に在るもの・ 地に在る物・見ゆるもの・見えぬもの・或は位・あるいは支配・あるいは政治・あるいは権威・みな彼によりて造られ」

と記されている如くである(十六節以下)。
第三に・教会の首なるキリストは万物の目的である。 万物は

「彼のために造られたればなり」

といわれている。第四に・教会の首なるキリストは万物の保持者である。

「彼は万の物より先にあり、万の物は彼にありて保つことを得るなり」

と記されている(十六節以下)。
⁋以上の如く、教会の首なるキリストは対教会的に首であるのみでなく、更に対宇宙的に「」 であり、「」(おさ)であり・「目的」であり・「中心」であり・「保持者」である。

「彼は始に して死人の中より最先に生れ給いし者なり。これ凡ての事に就きて長とならん為なり」

と録さ れている(十八節以下)。 実に全宇宙を超えて、然も全宇宙を支え、全宇宙の目的であるこのキ リストこそ、教会の首なるキリストであると告げられている。これこそ失われし創造の秩序の 回復が、キリストを首とする教会にのみ委ねられ、そこにおいて宇宙的救拡が具現するという おどろくべき奥義である。

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第二章 教会書>第八節 コロサイ書概説 3 終わり、次は第八節 コロサイ書概説 4

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