第二章 第八節 コロサイ書概説2

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⁋本書の筆者パウロは、この異端に対するに徹頭徹尾キリスト論を以てした。万物はキリストに「由りて」・キリスト 「の為に」創られ、キリストに「由りて」保持せられる(一章十五ー十七 節)。彼は教会の首であり、 その十字架の血に由て宇宙を己と和がしめ給うた (同十八節以下)。 即ちキリストは対教会的に首(あたま)であり給うのみではない、キリストはまた対宇宙的にも首であり給う。

「彼は凡ての政治と権威との首なり」

といわれている如くである(二章十節・十四―十五節)。彼においては

「知慧と知識と凡ての宝かくれあり」、

また

「神の満ち足れる徳はことごとく形体をなして」

宿っている(二章三・九節)。従って信仰者は、凡ゆる意味において

「彼に在りて満ち足れる」

者である (同十節)。それ故彼らは全く新しき人を着た者であり、また神の選民の一人である(三章十節・十二節)。本書はこのキリスト論を中心として構成せられている。
⁋従ってコロサイ書の勧告は、この絶対に充全なるキリストを首として受けたるが故に、教会の肢たる者は彼の如く生き、しかしてその与えられた能力を尽して労せよということである。

「われ之がために、我が衷に能力をもて働き給う者の活動にしたがい、力を尽して労するなり」

という言(一章二十九節)、

「汝らキリスト・イエスを主として受けたるにより、其のごとく彼に在りて歩め」

という言などはその勧告の中心である(二章六節)。
⁋コロサイ書とエペソ書とはその本文の対照に出て示される如く、文学的に対応していることは別としても——教会の本質という同系統の主題を取扱っている。しかして両書は近似しているのみでなく、内容的に相対応している。即ちエペソ書は「キリストの体なる教会」を語り、コロサイ書は「教会の首(かしら)なるキリスト」を語っているからである。従って両書はその強調点を異にしている。即ちエペソ書は教会の一切は世の創からこれを選み給うた神の聖旨の中に在るという。それ故に教会は教会の見ゆる現実の如何に拘らざる無条件的な選みに在る。斯くの如き無条件的な選みに基いて、教会の「絶対的確かさ」があると主張されていた。これに対してコロサイ書は、教会の首なるキリストが全くあるが故に、その教会の肢(えだ)は各々その「能力を尽す」 ベきであると訴える。

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第二章 教会書>第八節 コロサイ書概説 2 終わり、次は第八節 コロサイ書概説 3

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