第二章 第八節 コロサイ書概説1

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⁋コロサイ書はコロサイ教会に潜入し来った異端思想に対して、パウロが教会に警告を与えると共に、二三の点に就て教えんが為に記された書簡である。コロサイも今日の小アジアのフリギアにおけるリュクス河畔の一市邑(しゆう)であるが、使徒行伝にはパウロがこの地を訪問した記録はなく、この地に伝道したのは、彼がエペソに在った時(使徒行伝十九章)、彼と共なりしエパフラス及びテモテであったであろう(本書一章七節参照)。殊に後者は、この地の人であったと想われる。

「汝らの中の一人にてキリスト・イエスの僕なるエパフラス汝らに安否を問う………我(パウロ)かれが汝らとラオデキヤ及びヒエラポリスにある者との為に甚(はなはだし)く心を労することを証す」

とは、本書の終に記された言である(四章十二節以下)。
⁋本書簡はコロサイ教会に異端思想の主張者が潜入したことを、エパフラスによって知らされたパウロが、これを論破する為に記したもので(一章八節)、 当時彼と共にあったテキコとオネシモとによってこれを教会にもち行かせたものである。
⁋このコロサイ教会を危くした異端思想の何であったかは、この書簡の内容からでは、これを決定的に知ることはできない。然しその主張の中心とも思われる点は、略ぼ次の如きものであったとも思われる。この異端は略ぼ三つの種類に分たれるが、何れも「より高き教」なりと自己を主張し、キリストの贖罪に由る救拯のみでは全き救拯ではない、信仰者は宜(よろ)しくそのより高き点まで進まなければならないとしたらしい。その三種の一は、ユダヤ的異端である。然し ガラテヤ教会に侵入したそれよりは、非常に弱い形のものであったらしく、殊にパウロの使徒職の否定という点は含んでいなかったものとみえる。割礼に関する言及(二章十一節以下)・飲食物・祭日・月朔(ついたち)・安息日等に関する点 (同十六節)・誡命(捫(と)るな・味うな・触るな)に関する点 (同二十節ー二十一節)等はユダヤ的の色彩をもっていたものであることを示している。ただこの「誡命」に関する点は、後述する如く、あるいは他の禁欲主義のものであったかも知れ ない。異端のその二は「虚しき哲学」と本書に称ばれているもので(二章八節)、 初期の素朴なるグノーシス(霊智主義または覚知主義)のそれである。これは殊に信仰の上に知慧を置き、自身をより高きキリスト教なりとしたもので、 これに対抗する言辞は本書中に可成り多い(一九節・二十六節・二十八節・二章三節等)。 異端のその三は、前述の「誡命と教」とを、独立の禁欲主義的異端なりとみるもので(二章二十節以下)、

「捫(なで)るな・味うな・触るな」

という禁欲的誡律に立ち、天使を礼拝するという事を以てその特徴としたと思われる(二章十八節)。 これ等三種よりなるとみられる異端は、あるいは三種ではなく、一つのユダヤ的グノーシス派で、その中に諸種のものが混在していたものであったかも知れない。

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第二章 教会書>第八節 コロサイ書概説 1 終わり、次は第八節 コロサイ書概説 2

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