第二章 第七節 ピリピ書概説8

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第三 価値転換の実現 (三章ー四章九節)

⁋本書の最後の部分では、神の意志の働きに由てキリストの心を心とされる価値転換の実現の構造を分析的に述べている。

「兄弟よ、われは既に捉えたりと思わず、唯この一事を務む」

とは 牢獄の中に在る円熟せるパウロの言である(三章十三節)。 凡ゆる点において人に秀で、凡ゆる特徴と才能とに恵まれたパウロ、その熱心と努力において類(たぐい)なかったパウロが、「唯この一事を務む」といっている。価値転換の福音は、牢獄即ち人間的束縛の極みからこそ比類なき挑戦を語らしめる。

「されどさきに我が益たりし事はキリストのために損とおもうに至れり。然り我はわが主キリスト・イエスを知ることの優れたるために、凡ての物を損なりと思い、彼のために既に凡ての物を損せしが、之を塵芥のごとく思う」

とは、価値転換の出来事の構造である。凡ゆる人間的拠り所の否定、凡ゆる人間的安住の基盤の否定、凡ゆる人間的自負の否定、これがキリストを知るという事の意味である。それは

「後のものを忘れ、前のものに向いて励み」

といわれている如く、キリストの復活の能力及びその苦難を、より深く・より新しく知らんが為に凡ゆる過去的獲得、凡ゆるキリストに対する過去的知識をさえ否定することである。これが「己を空しくする」という事の厳しい要請である。しかしてここにパウロが語っている

「既に全うせられたりと云うにあらず、唯これを捉えんとて追い求む」

という課題は、神の聖旨の働く「心」においては然し、果てしなき努力の反復ではない。そこでは

「キリストは之を得させんとて我を捉え給えり」

という事柄が先行するのである。即ちこの構造は、「捉えられて捉える」という事であり、既に完成されたことの追求という逆説的な事柄である。終に

「凡そ真なること・凡そ尊ぶべきこと・凡そ正しきこと・凡そ潔よきこと・凡そ愛すべきこと・凡そ令聞(よききこえ)あること・如何なる徳いかなる誉にて汝等これを念(おも)え」

という、おおらかな人の心情が表現されているが(四章八節以下)、これは価値転換せしめる福音とは、「逆う者に驚かされぬ」 という泰然自若たる態度をもたしめるものであり、同時に人生の価値の凡てに対しての鋭い感受性を覚醒せしめる原動力である事実に注目せしめる言である。この信仰的原理に徹した人の心において初めて

「我は如何なる状(さま)に居るとも、足ることを学びたり。我は卑賤(いやしき) におる道を知り、宮におる道を知る。また飽くことにも、飢うることにも、富むことにも、乏しき事にも、一切の秘訣を得たり。我を強くし給う者によりて、凡ての事をなし得るなり」

という告白が生れる(四章十一節以下)。斯く本書は、「境遇の主」となるということの裏ずけは、実に、キリストの自己謙虚に示された価値転換としての福音把握に他ならないことを明かにする。

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第二章 教会書>第七節 ピリピ書概説 8 終わり、次は第八節 コロサイ書概説 1

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