第二章 第七節 ピリピ書概説3

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⁋この書に見られる如く、パウロ自身、キリストに由て偉大なる価値転換を味わしめられた者である。即ちパウロは今福音の為の囚人(とらわれびと)として獄中からこの書を認めている。それにも拘らずこの書に溢れているのは「喜び」の気分であり、常に「喜べ」というのがその使信の訴えである。彼は現在彼の置かれている逆境に対しても

「かれは我が縲絏(なわめ) に患難を加えんと思い、誠意によらず、徒党によりて之を宣ぶ、さらば如何、外貌(うわべ)にもあれ、真にもあれ、執れる宣ぶる所はキリストなれば、我これを喜ぶ。 また之を喜ばん」

といっている(一章十六一八節)。普通喜びといえば、それは人間の自然的欲求の満足の結果を意味しているものである。処が彼においては生来の人間から考えれば不幸としか呼べぬ出来事を「喜ぶべきこと」 とさせられているのである。彼の信ずる福音が、これを斯(か)く味わせているのである。これが信仰の与える価値転換の事実である。また更に凡ゆる人間的才能、機会に稀に見る程に恵まれていたパウロが、キリスト・イエスを知ったことを

「されどさきに我が益たりし事はキリストのために損と思うに至れり。然り我はわが主キリスト・イエスを知ることの優れたるために、凡ての物を損なりと思い、彼のために 既に凡ての物を損せしが、之を塵芥(あくた)のごとく思う」

と告白している(三章七一八節)。これは他でもない。福音はこれに与かる者において価値転換をなさしめずしてはおかないことの実例である。 ・

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第二章 教会書>第七節 ピリピ書概説 3 終わり、次は第七節 ピリピ書概説 4

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