第二章 第六節 エペソ書概説16

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第三 充す教会の歩み (四章ー六章) 4

(4) 教会のもつべき敵前感 (六章十節―二十二節)

⁋「終に云わん、汝ら主にありて其の大能の勢威によりて強かれ。悪魔の術(てだて)に向いて立ち得んために、神の武具をもて鎧(よろ)うべし」

という本書の終の勧告は、教会の肢に対して「敵前感」を要請する言である(六章十ー十一節)。万物を以て万物に満し給う者の満つることその事である教会は、満たさるべき世に置かれている。満たさるべき世とは、宇宙的虚無をその本質とし、背景としている。この宇宙的虚無とは即ち暗黒の支配者の存在の投映である。従って本書によれば、教会の戦闘の敵手は血肉ではない。それ は

「政治・権威・此の世の暗黒を掌(つかさど)るもの、天の処にある悪の霊と戦うなり」

と明言されている処の超世界的存在である。然れば之に対して教会は神の武具、即ち誠・正義・平和・信仰・ 御霊及び神の言を執(と)るべく要請される。
⁋然しこの敵前感は・天の処にて神の右に坐し、もろもろの政治・権威・能力・支配の上に君臨し、万物をその足の下に服わせ、万物の上に首となり給うべきキリストを首とする教会の敵前感であることが忘れられてはならない。イエスは弟子らとの決別に際して、この世の君について

「今この世の審判は来れり、今この世の君は逐(お)い出さるべし」

といい給うた(ヨハネ伝十二章三十一節)。この世の君とは、この教会の戦うべき悪霊を指している。黙示録によればこの超自然的悪霊の支配さえ、キリストに勝つことはできず、遂に最後の審判に至っては、神の羔羊(こひつじ)なるキリストに由て絶滅されるものと預言せられている (二十章七ー十節)。
⁋然れば再び結論的にいわれなければならない。新約書の根本原理は「所与」(ガーベ)と「課題」 (アウフガーベ)であるといわれた。然しこの論理構造は決して宙に浮いたものではなくして、それはキリストの体なる教会のもつ本質構造に由来するものなのである。即ち教会は、エペソ書が指し示すごとき、天的選みの故に「既に」神の前に潔く瑕(きず)なく全き者である。具体的教会の現状の汚れと貧しさと醜くさの一切にも拘らず、教会は「キリストの中に」この潔さと完全さとを既得なる「所与」とさせられているのである。この絶対に無条件的な「所与」を離れて教会の存在はないのである。然しこの絶対無条件的「所与」の故に、教会は「召されたる召に適いて歩め」という無限に厳しい「課題」をきかされる。実に新約書の「ガーベ・アウフガーべ」の原型はエペソ書においてこそ見出されるというべきである。
⁋然し最後に吾人が問うべきは、このエペソ書が告げる教会の絶対無条件的な天的祝福と選択と決定は、いったい何の為であろうかということである。この神的決定の背後には何が意図されていたのであろうか? 少くとも旧約のイザヤ書及びエゼキエル書はこれに対する神の答を象徴的に与えてくれる。即ち神はその選民に対する凡てを、彼自らの「聖き名の為に」為し遂げ給うという事である(エゼキエル書三十六章二十二節・詩篇百六篇八節・イザヤ書五十二章六節)。背反せるイスラエルが異邦諸国の前で汚した「選み主なる神の聖き名」を神は惜しみ給うて、その「神の聖き名の為に」選民を回復なし給うという深遠な思想が語られた。エペソ書のこの教会の選みの背後にかくされているものもまたこの神の「聖き名」である。神は「その聖き名の故に」汚れし教会の一切「にも拘らず」これを彼の産業として育み給う。之を宣べるのが

「これ夙(はや)くよりキリストに希望を置きし我らが神の栄光の誉とならん為なり………汝等も彼を信じて約束の聖霊にて印せられたり。これ我らが受くべき嗣業の保証にして、神に属ける者の贖われかつ神の栄光に誉あらんためなり」

という言である(一章十二ー十四節)。

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第二章 教会書>第六節 エペソ書概説 16 終わり、次は第七節 ピリピ書概説01

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