第二章 第六節 エペソ書概説15

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第三 充す教会の歩み (四章ー六章) 3

(3) 教会のもつべき一体感 (五章二十二節ー六章九節)

⁋この部分は特に家族関係を採り上げて、 キリスト者の在り方を勧告している。 然し就中(なかんずく)夫婦関係に重点をおいている。 妻に対しては

「キリストは自ら体の救い主にして教会の首なるごとく、夫は妻の首なれば主に服うごとく己の夫に服え」

と勧告し、夫に対しては

「キリストの教会を愛し、之がために己れを捨て給いし 如く汝らも妻を愛せよ」

といい、妻に対しては服従を、夫に対しては愛を要請する。即ちキリストと教会の関係が夫婦関係にまで映さるべきことを勧めている。教会の構造は、その部分たる各人の全生活にも浸透すべきだからである。しかして終に

「この故に人は父母を離れ、その妻に会いて二人のもの一体となるべし」

という 創世記の言を引いて(二章二四節)、 結婚の構造を叙べ、

「この奥義は大いなり、わが云う所はキリストと教会とを指せるなり」

と 附言して いる(五章三十—三二節)。教会とキリストの根柢に在るべき一体感がこれに由て指示されている。
⁋さてこのことの理解をより充全ならしめるためには、次のことを知らねばならない。旧約に おいて「知る」という言は不思議にも、夫婦が相識るという時に用いると同一の語を用いているという事実である。

「アダム共の妻エバを知る、彼孕(はら)みてカインを生み」(創四章一節等)

といわれているのもその例であり、預言者アモスの選民に対する

「イスラエルの子孫 (ひとびと)よ、 エホバが汝らにむかいて言うところ、我がエジプトの地より導き上りし全家にむかいて云うところの此の言を聴け・地の諸ろの族の中にて我ただ汝らのみを知れり、この故に我なんじらの諸ろの罪のために汝らを罰せん」

という言の「知れり」 というのもこの意味をもつ語である (アモス書三章一―二節)。 この事は旧約の「知」の概念が決して傍観的・第三者的なる対象的の知でないことを示すに充分である。即ち斯の如き「知る」という事は、夫婦が相知る如く体認的実存的な知り方を意味する。これこそヘブル的なる実存的思考がギリシャ的なる対象的思惟から峻別される所以である。新約聖書もまた明かにこの旧約の「実存的知」を受けついでいる。先にエペソ書は、教会をキリストの体と観ること、しかしてこの教会は「悟る体」であることを叙べた。然ればキリストと一体なる教会の「悟り」は、徹頭徹尾、実存的知のそれであるべきである。このキリストと教会との人格的結合としての「一体感」が深まることに正比例してのみ、 神の智慧の高さ・深さ・広さに対する教会の悟りもまた深まるという結論になる。旧約書の中の雅歌は、その形は肉体美を讃美する一篇の恋愛歌の集成でありながら、それも正典の一書としては、キリストと教会との「神秘的愛」を歌ったものとして解釈される。然しこの雅歌の解釈により高き光を投ずるのは、「教会とキリストの一体性」を語るエペソ書であるといわねばならない。

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第二章 教会書>第六節 エペソ書概説 15 終わり、次は第六節 エペソ書概説 16

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