第二章 第六節 エペソ書概説13

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第三 充す教会の歩み (四章ー六章) 1

⁋充す教会の現実の歩みは、以上の如き教会の選みと悟りに基いた「歩み」でなければならない。本書の前半は、教会の「奥義の解明」に費やされたが、後半のこの部分には教会の「在り方の規定」がなされている。しかしてこの在り方は、第一に「渾一感」(四章一ー十六節)・第二 に「盈満(えいまん)感」(四章十七ー五章二十一節)・第三に「一体感」(五章二十二ー六章九節)・第四に「敵前感」(六章十節以下)として区分される。

(1) 教会のもつべき渾一感 (四章一一十六節) 1 

⁋ここには先ず教会のもつ独特な「渾一性」を述べ、その輝一性を教会の肢(えだ)たる者の自覚とすべきことを勧めている。教会の本質としての渾一性が、教会の肢に浸透する時、それは各個人における渾一感となる筈である。ここでは教会の渾一性が、御霊と神とキリストという三位から述べられている。即ち第一の勧は

「平和のつなぎのうちに勉めて御霊の賜う一致を守れ」

といわれている (四章三節)。 教会の構造とは

「体は一つ・御霊は一つ・召も一つ・主は一つ・バプテスマは一つ・神は一つ」

という「渾一態」 である(同三ー五節)。 教会の一致はこの上からの御霊に由る一致以外の何ものであってもならない。その意味において、教会の一致とは、外の世界におけるいわゆる「一致」とは質的に異るものである。即ち教会のもつべき一致とは、人間的利害の一致でもなく、人間的主義や傾向の一致でも、共鳴でもない。それは人間的趣味や嗜好の一致であってもならない。教会の究極的一致とは、この教会の本来的渾一性の自覚でなければならない。
⁋教会の渾一感の根拠の第二は・

「神は凡てのものの上に在(いま)し、凡てのものを貫き、凡てのものの内に在」

すという神の「超在・貫徹・内在」の自覚である (同六節)。この自覚の徹底が即ち「聖前感」に他ならない。教会の渾一感の根拠の第三は・キリストの恩恵の賜物に由る渾一感である。今語られた万物に対する神の「超在・貫徹・内在」という在り方を、更に「賜物を以て充実」し給う者がキリストである。即ちキリストは

「高き処に昇りしとき、多くの虜をひきい、人々に賜物を賜えり」・「降りし者は即ち万の物に満たん為に、もろもろの天の上に昇りし者なり」

と観られている (同七節以下)。 イエス・キリストの受肉・十字架・昇天・ペンテコステは他でもない、キリストの対万物的貫徹・超在・内在を意味する。然もこの彼の活動の目的 は「賜物を以て万物を満す為」であった。然もその賜物は、「キリストの体の構成体に対する」 賜物である。

「彼は或人を使徒として或人を預言者とし・或人を伝道者とし・或人を牧師・教師として与え給えり」

といい、その目的を明瞭に

「これ聖徒を全うして職を行わせ、キリストの体を建て、我らをしてみな信仰と神の子を知る知識とに一致せしめ、全き人・すなわちキリストの満ち足れるほどに至らせ」

る為であるとしている(同十二節以下)。
⁋キリストが充すという事は、もはや個人が孤立的に偉大になることを意図しない。キリストが満すのは、キリストの体なる渾一体としての教会形成に向って賜物を以て満たすということである。然れば教会という「特定の場」から離れてキリストによる充足を望むということは謬である。と同時に、教会の渾一性は平面的一致でもなければ、死せる平和の一致でもない。それは実にキリストの賜の個性的差異を包む渾一体である。その渾一体の一致とは、それ故「賜の多様性に於ける渾一態」 というべきものである。

「彼を本(もと)とし全身は凡ての節々の助けにて整い、かつ連り、肢体おのおの量に応じて働くにより、その体成長し、自ら愛によりて建てらるるなり」

と記されている如くである(同十五節以下)。

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第二章 教会書>第六節 エペソ書概説 13 終わり、次は第六節 エペソ書概説 14

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