第二章 第六節 エペソ書概説7

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第一 充す教会の選み (一章―二章)3

(1) 教会の選みの秘義 (一章三ー七節)2

⁋この言の光に照してみる時、更に教会の選みということの「確かさ」が、比類なく確固たる根拠を与えられている事がわかる。しかしてこの点からみる時初めて

「世の創の前より屠(ほふ)られ給いし羔羊なるキリスト」

という黙示録の表現が躍如としてくる(十三章八節・十七章八節参照)。即ち教会の祝福は地上の教会を構成している汚れた、貧しい人財が評価された結果のそれでもなければ、また地上の教会が僅かばかり人道的社会的の奉仕をしたからでもない。唯だ一重にその祝福は、神の満ち足れる徳が悉く形体をなしている「キリストに由る」霊のもろもろの祝福であるというのである。そこには文字通り、満ち足りて在る神の独子の絶大なる祝福以下の何ものも意味されてはいない。従って教会の天的選みは

「神の聖前に教会を潔く、聖なからしめん為」

のそれである。神の聖前に立つ者は、潔く瑕(きず)なき羔羊(こひつじ)の完全を身にまとうた者でなければならない。汚れたる者・潔からざる者はその神の聖きには絶対に堪え得ないから である。

⁋然らば地上の教会は何うであろうか。これを見てこれがそのまま「潔く瑕なき完全」なものだとは誰しもいわない。 然し地上の教会の見ゆる現状の不完全極まる姿「にも拘らず」、教会 はこの天的選みの故に「潔く瑕なきもの」だというのである。この選みの確かさは絶対に「選まれた者」の如何に根拠をもつのではなく、「選み主にのみ」その絶対的確かさの根拠があるという事である。これに就て吾人はロマ書の次の言を想起する。即ちイスラエルの選みに就て 「然れば 欲する者にも由らず、走る者にも由らず、ただ憐みたもう神に由るなり」(九章十節ー十六節)と言われている。「選み」ということの確かさは、実に欲する者にも由らず、走る者にも由らず、ただこれを選み出し給う神の御旨にのみ拠る。教会の選みの確かさも斯くの如き天的選みに深く根ざすことが確認されなければならない。教会の具体的姿の不完全さ、貧しさ から教会の存在を評価し、これに見切りをつけて去る事は、絶対に誤っている。教会の凡ゆる現実「にも拘らず」、教会はその「天的祝福」の故に、「天的選択」の故に、その「天的決定」 の故に、潔く瑕なき者だからである。
⁋然しこの「確かさ」の信仰的確認は、見ゆる教会の現実の悪と不完全と汚れに対して、眼を閉じることを意味しない。教会は実にこの「潔く瑕なき者である」という天的「所与」の宣言をきくと同時に、「潔くあれ」という地的「課題」の責任えと召されたる自己を見出さしめられ るのである。従って常に教会の所与 (Gabe・Gift)は課題(Aufgabe・mission) であり、教会の「課題」は同時に「所与」なのである。

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第二章 教会書>第六節 エペソ書概説 7 終わり、次は第六節 エペソ書概説 8

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