第二章 第五節ガラテヤ書概説11

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第三 パウロの信仰的実践の要請 (五章ー六章)3

(3) 聖霊に基く実践 (五章十六節—六章十八節)2

⁋キリストの十字架に対立して律法を固守しつつ、なおキリストの十字架の責めと訴とから完全に逃れ得ない、というのがユダヤ律法主義者らの在り方である。キリストの十字架は、凡そ律法的行為に由て身を飾らんとする凡ての人に対立し、之を責めずには居ないのであり、彼らは之に由て責められずしては生きられないのである。律法の下に在る人が十字架に対して斯くの如き対立をなすのに対し、キリスト者パウロは十字架と共に立つ。之をパウロは

「今より後誰も我を煩わすな、我はイエスの印(しるし) を身に佩 (お) びたるなり」

と宣言している(六章十七節)。人間の実践の途は唯だ一つ・律法の奴隷となるか、イエス・キリストの奴隷となるかの何れかあるのみである。「イエスの印を身に佩びたパウロ」とは、イエスの奴隷としての印を身に帯びたパウロである。それは福音的実践の「自由」とは、逆説的にキリストに由る全き 「束縛」であると結論される所以である。

⁋以上、本書はその区分に示したように三つの事を教える。第一にキリスト者の使命は全く 「人よりに非ず・人に由るにも非ず」であるということである。実に是程光栄ある事はない。 我々信仰者は、この地上の汚れた生活の中にあり、地的欲望を追求して己まぬ人間の間におかれていながら、その使命を「上から」受け、この使命を「上から」貫かしめられるということである。

第二に我らが信ずる福音は、地的起源によらず、人的思考の産物ではなく、天的啓示に由て与えられたものであるということである。地上に住む限り信仰者は、凡ゆる反福音的理論や、 反キリスト的挑戦に直面し、或る時は信仰的懐疑に襲われぬとも限らぬ。その時、信仰者の眼はこの福音の天的起源に向けられ、そこに福音信仰の揺がざる根拠を見出すのである。第三に この福音およびその使命の確信は実践に耐え得るという事である。この世の生活において信仰者は、この世の直接的要求から善事善行によって信仰的在り方から律法的在り方へと移行する誘惑を受け易い。然し聖霊は信仰者を導き、律法「からの自由」・しかして愛「への」自由の立場において、その信仰的実践を貫かしめ給う。敘上の如く、ガラテヤ書は実に信仰者に福音の中心的性格を示す書であるという事が出来る。

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第二章 教会書>第五節ガラテヤ書概説11 終わり、次は第六節 エペソ書概説 01

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