第二章 第五節ガラテヤ書概説10

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第三 パウロの信仰的実践の要請 (五章ー六章)2

(2) 聖愛に基く実践 (五章十三—十五節)

⁋律法からの自由は、断じて無律法を意味しない。 律法の限界を超えて然る律法を成就する処にのみ真の意味の「律法からの自由」があるからで ある。それは律法の単なる対立としての無律法ではなくして、律法を否定して成就するという止揚に他ならない。その意味で律法を否定し、然も之をより高い次元で活かし成就するものは聖愛(アガペ)である。それ故聖愛は律法の成就者であるとさえ云われるのである。

「それ律法の全体はおのれの如く、なんじの隣を愛すべし、との一言にて全うせらるるなり」(同十四節)

とは、全き律法としての此のアガペを指示する言である。アガペとは自己拡充を本質とするエロスに対立する処の、自己限定を本質とする。然ればパウロは

「兄弟よ、汝らの召されたるは自由を与えられん為なり。 ただその自由を肉に従う機会となさず、反って愛をもて互に事えよ」

と命じている。律法からの自由こそ、逆説的に律法を成就する愛である事が此処に明示されている。

(3) 聖霊に基く実践 (五章十六節—六章十八節)1  

⁋聖愛(アガベ)とは他者に向って自己限定を為さしめるものであるが、 人間の肉は之に逆って此のアガペと相剋する

「肉の望むところは 御霊にさからい、御霊の望むところは肉にさからいて互に相戻(あいもと)」

るのが 人間の現実であるからである(十七節)。然りとすれば、律法の下にある人と、福音の下に在る人との差異は何であろうかということが疑問になる。これに答えるのが

「キリスト・イエスに属する者は肉 とともに其の情と慾(よく)とを十字架につけたり」

と云う言である (同二十四節)。 即ちキリストの十字架なき・律法下に在る者において、この霊と肉との戦は果てしなき悪循環であるが、キリストの十字架の贖の下に立つ人間においては、肉に対する霊の勝利が「所与」として与えられる。其故にそこに常に肉の奴様とならぬよう・「御霊に由りて歩む」決断の自由が許されているというのである。

⁋最後に福音的実践が律法的実践と対照されている(六章十一節以下)。この部分では、日頃書記を用いて、自らは筆をとらぬパウロが特別に筆をとって自ら書いた事を力説し、

「視よわれ手ずから如何に大いなる文字にて汝らに書き贈るかを」

という断り書きをしている処に注意しなければならない。 この部分の中心は

「凡そ肉において美わしき外観 (みえ)をなさんと欲する者は、汝らに割礼を強(し)う。これ唯キリストの十字架の故によりて責められざらん為のみ。そは割礼をうくる者すら自ら律法を守らず、しかも汝らに割礼をうけしめんと欲するは、汝らの肉 ・ につきて誇らんが為なり。然れど我には我らの主イエス・キリストの十字架のほかに誇る所あらざれ。之によりて世は我に対して十字架につけられたり」

という言に視られる。福音的実践 と律法的実践とを画する一線はその「誇の対象」の如何にあるというのである。即ち律法主義者らの誇は自己の肉につける誇である。之に反してキリスト者の誇は自己を超えたキリストの 十字架にある。此処に両者の誇の質的対立がある。即ち律法主義者が割礼を強いるという行為も、それは彼ら自らがその律法を貫き得ぬということから、割礼を以てその自己の弱さと不完全性を覆いかくさんとする事であり、それは「美わしき外観をなさんと欲」する誇の行為に他ならない。

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第二章 教会書>第五節ガラテヤ書概説10 終わり、次は第五節ガラテヤ書概説 11

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