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第三 パウロの信仰的実践の要請 (五章ー六章) 1
⁋前項では、福音に与かる教会の人々は自主の女の子であり、律法の下に在る者は、婢女の子であると宣告された。「自主の子」であるキリスト者はその言の如く、自由の人間である。婢女の子が律法の奴隷であり、律法に縛られているのと反対に、キリスト者は律法の束縛の下にはないのである。然ればキリスト者は新しく獲得されたこの自由な立場に堅く立って生きることを要請される。彼がこの自由な立場を貫くことこそ信仰的実践なのである。しかしてこの部分 には、第一に・福音的実践はキリストに由て得る自由に基くものであること、第二に・それは キリストに由て得る愛に基くものであること、第三に・それはキリストに由て得る御霊に基くものであることをべ、最後に律法的実践の立場と信仰的実践の立場とを対照させてその論述を終わっている。
(1) 自由に基く実践 (五章一一十二節)
⁋この部分の冒頭には
「キリストは自由を得させん為 に我らを釈き放ちたまえり。然れば堅く立ちて再び奴隷の軛(くびき)につながるな」
という勧めが語られている(五章一節)。これこそ信仰的実践の第一原理である。「割礼を受けずば救われず」と主張する人は、律法の下に身を置く人であり、律法の下に身を置く人とは、律法に由て完全にその身を束縛される事を意味する。何故なら
「律法の書に記されたる凡ての事を常に行わぬ者はみな詛わるべし」
といわれ(同三章十節)、
「かれは律法の全体を行うべき負債」
があるからである(五章三節)。
⁋律法の世界と福音の世界とは斯く絶対に対立するものであって、一を選ぶ者は、絶対的にその世界の要請の下に立つのである。然し律法からの自由というキリスト者の信仰的実践は、断じて「無律法的」在り方を意味しない。凡そ自由とは規準を予想するのであり、絶対に規準のない処に自由はない。 即ち自由とは「或ることから」の自由であると共に、「或ることへの」自由であるべきものである。従って、無律法的自由なるものは、それ自身大いなる矛盾である。基督教の歴史は度々この誤謬の発生した事実を述べている。それではキリスト者の信仰的実践 の「自由」とは何であろうか。それはその本質において聖愛(アガペ)である。
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