第二章 第五節ガラテヤ書概説7

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第二 パウロの福音的義認の論証 (三章ー四章)2

⁋この事はいったい何を意味するかに対する彼の答は、

「信仰の出で来らぬ前は、われら律法の下に守られて、後に顕われんとする信仰の時まで閉じこめられたり。かく信仰によりて我らの義とせられん為に、律法は我らをキリストに導く守役となれり。然れど信仰の出で来りし後は 我等はもはや守役の下に居らず。汝らは信仰により、キリスト・イエスに在りてみな神の子たり」

と記されている(同二十三ー二十六節)。斯く信仰に対する律法の位置は「守役」であるに過ぎない。守役とは主人の子供をその家から師の許まで送り迎えする召使をいったもので、その子供が一定の年令になれば、全く廃されてしまう性格のものである。即ち

「キリストは我等のために詛(のろ)わるる者となりて、律法の詛より我らを贖い出し給」

いしことにより、律法は全廃された(同十三節)。 それ故キリストの十字架は、守役たる律法との訣別の宣言であり、律法からの自由の闡明(せんめい)である。ガラテヤ教会の前に立つ「十字架につけられ給いしままなるイエス」こそ、 彼らの「律法からの訣別と自由」との告知者なのである。それ故この律法に対して絶縁を宣告されながら、なおユダヤ律法主義の主張にひきずられるガラテヤ教会の行為ほど矛盾したものない。それ故パウロは詰問する

・「今は神を知り、むしろ神に知られたるに、何ぞ復(また)かの弱くして賤しき小学に還りて再びその僕たらんとするか」

と(四章九節)。

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