第二章 第四節 コリント後書概説12

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第三 使徒パウロの権威行使 (十章ー十三章十節) 2

⁋彼は実に、

「仮令(たとえ)われ汝らを破る為ならずして建つる為に、主が我らに賜いたる権威につきて誇ること稍(やや)過(す)ぐとも恥とはならじ」

と断(ことわ)っている (十章八節)。 彼の使徒的誇りは人間的にいっても何人にもひけをとらぬ類のものであり、信仰的にもまた知識的にも彼は

「我は何事にもかの大使徒たちに劣らずと思う。われ言に拙(つた)なけれども知識には然(しか)らず、凡ての事において全く之を汝らに顕(あら)わせり」

と述べている(十一章五節以下)。然しこの神の賜物は

「我は我が蒙りたる黙示の鴻大(こうだい)なるによりて、高ぶることなからん為に肉体に一つの刺を与えらる、 即ち高ぶることなからんために我をうつサタンの使なり」

という言に明示されている程超絶したものである (十二章七節)。

「然れど之を罷(や)めん」

と彼はいう(同六節)。

「もし誇るべくば 我が弱き所につきて誇らん」

とは使徒パウロの決心である。しかしてその弱き所につきて誇るという根拠は、

「わが恩恵なんじに足れり、わが能力は弱きうちに全うせらるればなり、然ればキリストの能力の我を庇(かば)わんために寧(むし)ろ大いに喜びて我が微弱(よわき)を誇らん……そは我よわき時に強ければなり」

という言に表現されている(十二章九節以下)。パウロにおける「確信と謙虚」という矛盾の不可思議な現象はここに至って解明される。「我の弱きにおける誇」こそ、「我の否定におけるキリストの肯定」である。パウロは「弱き時に強い」のであり、確信がある時にこそ謙虚なのであり、謙虚な時にこそ確信的なのである。然ればパウロは凡(あら)ゆる苦難の体験を述べた後

「ここに挙げざる事もあるに、なほ日々われに迫る諸教会の心労あり。誰か弱りて我弱らざらんや、誰か躓きて我燃えざらんや。もし誇るべくば、我が弱き所につきて誇らん」

とその使徒的権威にひそむ逆説を洩らしている (十一章二十三節以下)。以上によって、使徒的確信の根拠なる「キリストにおける然り」とは、「確信と謙虚」 との緊張的構造をもつことが明かにされた。

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第二章 教会書>第四節 コリント後書概説 12 終わり、次は第四節 コリント後書概説 13

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