第二章 第四節 コリント後書概説5

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第一 役者パウロの確信解明 (一章十二節―七章)3

⁋かく「然り」という事はキリストによって成ったのであり、教会の役者はそのキリストの「然り」を運ぶ媒体であるに過ぎない。故に彼はいう

「我等ふたたび言を薦め始めんや、また或人の如く人の推薦の書を汝らに齎し、また汝等より受くることを要せんや……汝らは(コリント教会)明かに我らの職(つとめ)によりて書かれたるキリストの書なり。しかも墨にあらで活ける神の御霊にて録され、石碑にあらで心の肉碑に録されたるなり」

と(三章一節以下)。パウロの労苦の賜物であるコリント教会が、実は神の御霊に由て録された唯一の「然り」なるキリストの書であるという処に、役者パウロのコリント教会に対する確信の根拠がある。
⁋本書の三章四節以下は、役者パウロの確信の原理的解明に入る。即ち

「我らはキリストにより神に対して斯(か)かる確信あり。されど己は何事を自ら定むるに足らず、定むるに足るは神によるなり」

といい(三章四節)、 之を次の三点から掘り下げている。 第一は自由の確信であり (三章四節―四章六節)、第二は逆理の確信であり (四章七節ー五章十節)、 第三は聖別の確信である (五章十一節―七章)。以下順次これを概観することとする。

(1) 自由の確信 (三章四節ー四章六節)

⁋彼はこの部分で、パウロの福音に反発するユダヤ主義者の教師らと、キリストの福音の役者としての彼との差異を述べるに、律法と福音の対照を以てしている。即ち彼らは殺す儀文の役者であり・我らは活かす霊の役者である。彼らの律法は石碑に録され・我らのは肉碑に録される。彼らのは消え行き、我らのは永存する。彼らの心には面帕 (かおおおい)が置かれているか・我らはそれを取り除かれている。しかしてこれ等を綜括するのは

「主は即ち御霊なり、主の御霊のある所には自由あり。我等はみな面帕なくして鏡に映るごとく、主の栄光を見、栄光より栄光にすゝみ、主たる御霊によりて主と同じ像に化するなり」

という言である (三章十七節)。 我らの神の前における唯一の「然り」であるキリストに帰する時、初めて「御霊に由る自由」の確信が与えられる。是が役者パウロの確信の第一の根拠である。

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第二章 教会書>第四節 コリント後書概説 5 終わり、次は第四節 コリント後書概説 6

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