第二章 第三節 コリント前書概説11

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第一 教 会の問 題 (一章十節ー十章) 5

(5) 供物問題 (八章ー十章)3

⁋以上は自己限定の自由のいわば消極的側面であるが、進んで彼は積極的側面に就いて次の如く告白している。

「われ凡ての人に対して自主の者なれど、更に多くの人を得んために、自ら凡ての人の奴嶽となれり。我ユダヤ人にはユダヤ人の如くなれり、これユダヤ人を得んが為なり。律法の下にある者には——律法の下に我はあらねど——律法の下にある者の如くなれり。これ律法の下にある者を得んが為なり。……我すべての人には凡ての人の状(かたち)に従えり、これ如何にもして幾許(いくばく)かの人を救わん為なり」

とは、自己のもつ自由を他者の救の為に否定し、限定する「自己限定の自由」を指示する代表的な発言である(九章十九節以下)。これは他でもない、教会の首なるキリストが十字架のキリストであり、彼こそ神と等しき位置を否定して、人の罪を負い給いしところの、絶大なる「自己限定者」であるからである。教会の肢なる者の自已限定とは、正にこの首なるキリストの自己限定の投映に過ぎないのである。それ故パウロは彼の自己限定に関して

「われ福音のために凡ての事をなす、これ我も共に福音に与からん為な り………わが体を打ちたたきて之を服従せしむ。恐らくは他人に宣べ伝えて自ら棄てらるる事あらん」

と宣べ、キリスト者に対して、その在るべき姿として、自己限定の必然を指示している (同二十三節以下)。
⁋以上本書は教会の世俗化を警告しつつ、その諸問題を批判してきたが、その批判の規準となっているものに対して絶えず注意が促されてきた。その規準はもはやキリスト者の「外」に対象的に掲げられる律法ではない。それは神の知恵なるキリストを首とする教会の秩序感である。従ってそれはこの世の知恵との質的対立の意識である。この世の知恵と神の知恵との質的対立の意識の鈍るところ、そこに教会の弱体化と世俗化とが結果する。これが以上の事柄を通して 語られてきた結論である。

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第二章 教会書>第三節 コリント前書概説11 終わり、次は第三節 コリント前書概説12

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