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第一 教 会の問 題 (一章十節ー十章) 4
(5) 供物問題 (八章ー十章)2
⁋然しここには、第二に・このキリスト者の自由は、自己限定の自由に他ならないと教えていいる。即ちパウロはつづいて
「然れど心して汝らの有てる此の自由を弱き者の躓物(つまづき)とすな」
と命じている(同九節)。しかしてこの部分はその殆んど凡てがこのキリスト者の「自由」 の分析的論述に費されている。然もここにそれは消極的・積極的の両面から述べられている。 先ず消極的側面についてみることとする。偶像の供物に対してキリスト者は自由である。然し知識あるキリスト者が偶像の宮で供物を食するという事は、弱い人の躓を越す原因ともなり得る。それ故パウロはこの自由を有ちつつも、
「この故にもし食物わが兄弟を躓かせんには、 兄弟を躓かせぬ為に、我は何時までも肉を食わじ」
と云っている (同十三節)。即ちパウロの場合の自由とは、自己満足の為の自由ではなくして、他者への慮(おもんぱか)りの為に自己を限定する自由である。実にパウロは凡ゆる権利と自由の所有者である。
「もし他の人なんじらに対してこの権あらんには、況(ま)して我をや」
とは彼の卒直な主張である。然し彼はこの権利を自己の満足の為に利用しない。
「然れど我等はこの権を用いざりき。 唯キリストの福音にさまたげなきように、一切のことを忍ぶなり」
と反復して、彼が権利と自由とを用いないのは、無い為でなく、充分もっているに拘らず用いないという、自己限定の自由に基くことを披瀝している。
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