第二章 第三節 コリント前書概説7

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第一 教 会の問 題 (一章十節ー十章) 3

(2) 淫行問題 (五章ー六章)

⁋この部分は

「現に聞く所によれば、汝らの中に淫行ありと、しかしてその淫行は異邦人の中にもなき程にして、或人その父の妻を有てりと云う。斯くてもなお汝ら誇ることをなし、斯る行為をなしし者の除かれんことを願いて悲しまざるか」

という訴を以て始められている。この問題も前掲の紛争問題の場合の如く、その原因が教会の秩序感の欠如にあるものと診断されている。即ちコリント教会の此の淫行問題に対する無関心は、彼らが異質的なるものに対する弁別力を欠いている所から来ている。そこで教会の世俗化が結果した。それ故パウロは

「汝らの誇は善からず、少しのパン種の、粉のかたまりをみな膨れしむるを知らぬか。なんじら新しきかたまりとならんために旧きパン種を取り除け、汝らはバン種なき者なればなり。夫れわれらの過越の羔羊、即ちキリスト既に屠られ給えり、されば我らは旧きパン種を用いず」

といい、ここでも再び教会と世との質的対立性の自覚に訴えている(五章六 節以下)。しかして

「自ら欺くな、淫行の者・偶像を拝むもの・姦淫をなすもの・男娼となるも の・男色を行う者・盗みするもの・酒に酔うもの・罵るもの・奪う者などは・みな神の国を嗣ぐことなきなり」

と厳しく戒め(六章十節)、

「身は淫行をなさん為にあらず、主のためなり、主はまた身の為なり。 神は既に主を甦えらせ給えり、 又その能力をもて我等をも甦えらせ給わん」

と述べ、 復活の主を頂点とする教会という有機体の中に、人間の身体を位置ずけている (同十三節以下)。
⁋教会の肢たる者において、「教会とキリストとの一体性」の認識のにぶる時、そこに凡ゆる実践的誤謬が起る。故に本書は

「汝らの身はキリストの肢体なるを知らぬか、然らばキリストの肢体をとりて遊女の肢体となすべきか、決して然すべからず。遊女につく者は彼と一つ体となることを知らぬか、二人の者一体となるべしと云い給えり。主につく者は之と一つ霊となるなり……汝らは価をもて買われたる者なり。然らばその身をもて神の栄光を顕わせ」

という結びの言を通して、キリストを首とする教会の有機体に属する者の当然もつべき帰一感と秩序意識を喚起している(同十五節以下)。旧約の選民イスラエルの育成の基本的なものは、聖なるものと聖ならざるものとの弁別であった如く(レビ記参照)、 新約の神の選民なる教会は先ず、教会と世との質的対立に対する鋭敏性を育成されなければならない。

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第二章 教会書>第三節 コリント前書概説07終わり、次は第三節 コリント前書概説08

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