第二章 第三節 コリント前書概説3

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⁋この福音の本質に立脚した指導と訓戒が与えられながら、然も本書においては、個々の信仰者の信仰的にして個性的の自由が尊重せられている。パウロは明かに彼自身が「主の命を受け」たことと、

「主のいい給うにあらずして・彼の意見」

として語ることとを、明瞭に区別している (七章十節・十二節・二十五節・四十節)。しかして彼は

「我がキリストに效(なら)う者なる如く、なんじら我に效う者となれ」

といいながら (十一章一節)、

「これはこれのごとく、彼は彼のごとし」

といい(七章七節)、しかして

「汝等みずから判断せよ」

といっている(十一章十三節)。
⁋本書において特に注意せらるべき二つのことがある。一は「復活」の理論で、他はいわゆる 「愛の頌(かたち)」である。パウロ書簡を読む者が感ずることは、彼が非常に論理的頭脳の持主であるということであるが、就中本書におけるこの復活の理論を読む時(十五章)、特にこの事を感じさせられる。

「キリストは死人の中より甦えり給えりと宣べ伝うるに、汝等のうちに、死人の復活なしと云う者あるは何ぞや」

という言を手懸かりとして、この彼の論述は発展させられている(十二節)。新約聖書中復活に関する記事は非常に多くあるが、然し若し本書のこの論述がなかったとしたら、この復活が果して如何なるものであったかを明瞭に知ることはできなかったであろう。
⁋之と並んで注意せらるべき「愛の頌(しょう)」は(十三章)、復活の理論を述べるパウロの言とは、殆ど思えない程の異った面を示すものである。

「仮令(たとい)われ………凡ての奥義と凡ての知識とに達し……とも愛なくば数うるに足らず」といい、「愛は長久までも絶ゆることなし……知識もまた廃らん」

といい、更に

「げに信仰と希望と愛とこの三つの者は限りなく存らん、しかしてそのうち最も大いなるは愛なり」

という言を読む時(二節・八節・十三師)、これ等の言の筆者は、復活論を展開した論者とは、全く別人であるかの如き印象を与えられる。然しその印象は実は皮相的なものであることが徐々にわかってくる。この愛の頌そのものは決して感傷的の歌ではなく、どこまでも論理的の分析と、理詰めの発展とによる「愛」の本質の解明であるからである。 ここに読者は「理論ではない・愛だ」という俗論の誤謬を、赤裸々に見せつけられる。従ってこれは愛の「頌」ではなく、愛の「神学」というべきものである。

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第二章 教会書>第三節 コリント前書概説03終わり、次は第三節 コリント前書概説04

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