第二章 第二節 ロマ 書 概 説15

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第一 福音の論理 (一章十八節—十一章三十六節)10

(4) 福音による対選民的省察 (九章ー十一章)2

⁋この部分はいわば「福音」の立場から為された選民の内在批判ともいうべきものであるが、 この項を結論的にいえば次の如くなる。選民イスラエルは、絶対自由なる神の恩寵に由て選まれた。イスラエルはその選の故に、その恩寵が「欲する者にも由らず、走る者にも由らず、ただ憐みたもう神に由る」ことを身を以て証しすべき者であった(九章十六節)。然るに、イスラエルは己れの義を立てんとした為、選民たる使命遂行に敗れた。彼らは要するに信仰に由らず、 律法に由て生きんとして挫折した(九章三十一節、十章三節等)。 然し彼らはその挫折の故に永久に神から棄てられたのであろうか。否

「決して然らず、反ってその落度によりて救は異邦人に及べり」

と記されている(十一章十一節)。しかして、その事の目的は何かというと

「これイスラエルを励まさん為なり」

と云われている。またそこには選民の特異性がオリブの枝を以て述ベられ、野のオリブなる教会の異邦人に対しては、

「かの枝 (選民)に対いて誇るな……なんじ生来の野のオリブより切り取られ、その生来に悖(もと)りて善きオリブに接がれたらんには、況(ま)して原樹(もとき)のままなる枝は、己がオリブに接がれざらんや」

と警告されている (十一章十三節以下。しかして以上の綜括として

「福音につきていえば、 汝等のために彼ら(選民)は敵とせられ、 選びにつきていえば、先祖たちの為に彼らは愛せらるるなり。それ神の賜物と召とは変ることなし」

という結論が与えられている(十一章二十八ー九節)。宇宙救拯という神の聖旨を遂行すべく選まれたイスラエルは、その使命達成の「器」としての意義を教会に譲ったのであるが、それ「にも拘らず」神の召は変らずに存続しているのである。さればパウロは教会に向って

「兄弟よ、われ汝らがみずからをさとしとする事なからん為に、この奥義を知らざるを欲せず、即ち幾許(いくばく)のイスラエルの鈍くなれるは、異邦人の入り来りて数満つるに及ぶ時までなり。斯くしてイスラエルは悉(あまね)く救われん」

と宣べている(十一章二十五節以下)。神の許し給う時に 「悉く救われるイスラエル」とは、イスラエル民族全体を意味している。それというのは選民イスラエルの召は「神の召」であり、従ってそれは絶対不変なる選みだからである。然ればイスラエルの位置と全意義とを教会が奪ってしまったとする古いプロテスタント的の考え方は、之に拠て是正さるべきである。勿論教会を指して

「されど汝らは選ばれたる族、王なる祭司、 潔き国人、神に属ける民なり……なんじら前には民にあらざりしが、今は神の民なり」

というような言に立脚して(ペテ口前書二章九―十節)、斯く考えたのは無理ではなかった。 パウロですらも、教会を指して「神のイスラエル」と称んでいることは (ガラテヤ書六章十六節)、この誤解を助長したらしい。然し、パウロ自身その意味を意図したものでないことがロマ書のこの部分に依て明かにせられる。本書は明かに選民を対万民的な福音の立場から水平化しているのではなく、反(かえ)って救拯史における選民史の特殊な位置を立体化しているといわねばならない。実に イスラエルは「神の選み」が

「欲する者にも由らず、走る者にも由らず、ただ憐み給う神に由る」

事の「証」としてこの世に立つ者だからである。即ち選民イスラエルこそは「それ神の賜物と召とは変ることなし」という超絶的命題の証人として、この普通史の中に立たされているのである(同二十九節)。

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第二章 教会書>第二節 ロマ 書 概 説15 終わり、次は第二節 ロマ 書 概 説16

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