第二章 第二節 ロマ 書 概 説12

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第一 福音の論理 (一章十八節—十一章三十六節)8

(3)福音による外(別)律法的義認 (三章二十一節ー八章)6

(ホ) 「聖霊的解明」(八章)

⁋とせられた部分は、外律法的義認の確証が、第一には旧約的(四章)、第二には神学的(五章)、第三には礼奠的(六章)、第四には限界的(七章)として解明されてきた以上の契機全体に対して頂点をなすものである。七章の終りの

「心にては神の律法につかえ、肉にては罪の法に事え」

ざるを得ないという告白から、第八章一節の

「今やキリスト・イエスに在る者は罪に定めらるることなし、キリスト・イエスに在る生命の御霊の法は、なんじを罪と死との法より解放(ときはな)したればなり」

という言に移るとき、人はその飛躍の突如なるに一時をどろかされる。然し

「キリスト・イエスに在る者は罪に定めらるることなし」

という断定は、あくまで「神」の行為であり、「神」の決断であって、断じて人間的論理の帰結ではない。前項で語られた「ロギゾマイ」としての確証は、いわば「下から」の確証であり、之に対応して此処に語られている確証は「上から」のそれであり、従って「聖霊的確証」である。即ちこの義認の断定は神の決断であり、聖霊に由る確証以下の何ものでもない故に、それは人間の論理的帰結を否定する如き飛躍的な確証なのである。従って第八章一節の言を第七章の終の言に照して分析すると

「キリストに在る生命の御霊の法は、現在尚お肉において罪の法に仕えざるを得ざるままの汝を、罪と死との法より解き放った」

と解釈される。この飛躍的な 論理が聖霊に由て確証されるのは他でもない、

「御霊みずから我らの霊とともに、我等が神の子たることを証す」

るからである(八章十六節)。 この聖霊の証を教えている言は、ルーテル訳独逸語聖書によると、

「その同じ聖霊が我らの霊に我らが神の子であるという証を与える」

といっている(“Derselbe Geist gibt Zeugnis unserem Geist, dass wir Gottes Kinder sind”)。この「その同じ」とは、前節の「子とせられたる者の霊」を指しているので、 これには問題はない。次の邦語および英語で、我らの霊と「ともに」となっているのが、我らの霊「に」とされている点が問題である。これは然しここに用いられているギリシャ語からいうと (summartureo)、何れとも訳すことができるので、 何れを誤で何れを正ということもできない。即ちそれは、「証する」とも、「ともに証する」とも訳すことができる語である。然し普通「証しする」という語は、martureoという語があるので、それにsun(ともに)という前綴りが附いているということは、この語の原意が「ともに証しする」(to bear witness with–Mitzeuge sein-mitbezeugen)であることは疑いない。従ってこの二種の解釈の何れが正しいかを決定するには、新約書全体に現われている「聖霊の内的証示」に関する言及からの帰納的結論に拠らなければならない。然し茲には多分に解釈者その人の体験が影響する。ジョン・ウェスレー以来唱えられてきた、「自覚することのできる救い」“the conscious salvation” とは、この節を邦訳または英訳のごとく解釈した立場に立つものである。この場合参考となるのは、同じパウロの書いた

「なんじら信仰に居るや否や、自ら試み、自ら験(ためし)しみよ。汝らみずから知らざらんや……イエス・キリストの汝らの中に在す事を」(コリント後書十三章五節)

という言である。その解釈は何れにせよ、当面の問題たる、律法の外に顕われた義認が、絶対的に確実であるということの聖霊的確証が、この節において明示せられているということには何ら疑がない。神の子とせられた基督者が、自己を神の子として信ずる信仰の根拠は、以上述べ来った諸種の確証の上に立つのみならず、更に、この・節に顕われている聖霊の確証に由るものである。

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第二章 教会書>第二節 ロマ 書 概 説12 終わり、次は第二節 ロマ 書 概 説13

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