第二章 第二節 ロマ 書 概 説11

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第一 福音の論理 (一章十八節—十一章三十六節)7

(3)福音による外(別)律法的義認 (三章二十一節ー八章)5

(ニ)「限界的解明」(七章)  

⁋とせられた部分は、 律法の作用の限界性を論述することによって、福音の支配の絶対性を消極的に立証せんとしている。茲ではその冒頭に

「兄弟よなんじら知らぬか(われ律法を知る者に語る) 律法は人の生ける間のみ、これに主たるなり」

と語調を更めて以下の如く叙べている。即ちキリスト者は、キリストの体の肢となる事に由て律法に対しては「死別」した者である。

「斯くのごとく汝等もキリストの体により律法に就きて死にたり」

と云われている。然れば律法そのものが罪なのであろうか? 否・律法は聖であり、正しく人に罪を自覚せしめるものである。然し律法の限界も亦その効用と共在する。律法は人の罪を自覚せしめる故に

「わが欲する処は之をなさず、反って我が憎むところはこれを為すなり」、「我罪なる人にては神の律法を悦べど、わが肢体のうちに他の法ありて我が心の法と戦い、我が肢体の中に在る罪の法の下に虜とする」

ことが発見せられた。従ってパウロ自身が

「噫(あゝ)われ悩める人なるかな、此の死の体より我を救わん者は誰ぞ」

と叫ばざるを得なかった(二十四節)。この心霊的苦悩を描いた本書第七章十九節以下が、パウロの回心以前の経験なるか、或は回心以後のそれなるかという点に就て、古くより論争があったが、今日なおその究極的解決をみることはできない。これは文献的歴史的問題であると共に、正典的神学的問題である。 啻だ然し茲で一つ明かにしておかなければならないことは、程度または次元の差こそあれ、この苦悩は回心前とその後とにおいて、普通信仰者が経験したことである。もしこれが回心前の苦悩の回心後における回想であったとしても、この回想を録しつつある本書の著者は、必らずやそれに回心後の経験よりする「着色」をしているものと思われる。何れにせよアダムの裔としての人間が、真剣に自己を反省する時、自己の裏に発見する「分裂」と「苦悩」とが、茲に指摘せられているのである。
⁋この分裂と苦悩とを、真に人間に発見せしめる「媒介」こそ、「録されたる律法」であるか、また「録されざる良心の律法」である(二章十四節以下)。しかしてそれが生む「自己矛盾」こそ、恩籠の下に在らざる人間の——或は恩寵の下に置かれている人間においてさえも、より高き意味において限界状況を暴露せられた状態である。然れば「罪の増すところ」を自覚せしめる律法を否定契機としてのみ、人は「恩籠もいや増す」こと即ち恩寵の支配の対律法的優位性を悟らしめられるのである(五章十五節以下)。然れば律法の下なる自己の矛盾的分裂は回心と共に全くは棄却されるのでなくして、むしろ恩寵の支配の絶対性を自覚する為の契機として反って鋭く活かされるものと結論されよう。

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第二章 教会書>第二節 ロマ 書 概 説11 終わり、次は第二節 ロマ 書 概 説12

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