第二章 第二節 ロマ 書 概 説10

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第一 福音の論理 (一章十八節—十一章三十六節)6

(3)福音による外(別)律法的義認 (三章二十一節ー八章)4

(ハ) 「礼奠的解明」(六章)  

⁋とせられた部分は「さらば何をか云わん、恩恵の増さんために罪のうちに止まるべきか、決して然らず、罪に就きて死にたる我らは、争で尚おその中に生きんや」と、「状態」そのものの分析を進めている(同一節)。これは前項の神学的確証の項が「立場」そのものの原理的分析であったのに対応している。信仰に由て義認された者は、もはや「律法の下」にはあらず、「恩恵の下」にある。この状況的転換を確証するものは然し何であろうか? それは「客観的」には「バプテスマ」という礼奠に由て与えられる。即ちバプテスマは我等がキリストと共に死に、キリストと共に甦えらせられる象徴である。然しこの事を「主体的」に確証するには、吾人がこれを「真に然り」として「決断的」に受け容れなければならない。本書はこの確証の主体的契機を「思う」という言に表現して次の如く叙べている。即ち「斯くのごとく汝らも己を罪につきては死にたるもの、神につきては、キリスト・イエスに在りて活きたる者と思うべし」という最後の言である(同十一節)。「思う」と訳されているこの語の原意 はギリシャ語のロギゾマイ (logizomai)、「……と算える」或は「……と見做(みな)す」 という意味から出ており、例えば帳尻の上で合っていれば、事実、現金が不足であっても、帳面の通りと「見なす」という決断を指している。信仰の事柄は常に、客観的に提示された事柄を「今・此処」において、 たとい具体的状態となっていないにしても——「我が立場」として「我が為」として主体的に受け取る決断、即ち「ロギゾマイ」を要請する。即ち全存在をかけての ロギゾマイが、礼奠的確証において要請せられているのである。

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