第二章 第一節 使徒行伝概説 22

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第二 ユダヤ・キリスト教会の形成 (三章ー十二章)7

(1) 建てられたる教会(三章一八章三節) 7

⁋この関係において、この創設せられたる教会の具体的在り方として、次の重要な叙述が見出される。即ちこの教会の信じたる群は、

「おなじ心おなじ思となり、誰ひとりその所有を己が物といわず、凡ての物を共にし」、「彼らの中には一人の乏しき者もなかりき」

といわれている。かくして彼らが主イエスの能力に満されて復活の証言をなしたという、新しき現実の創造が、教会形成の姿として叙べられている。この事は、本書において、可成り重要な事態として見られ、これと略ぼ同じ叙述が、前にも教会の素朴な在り方として、述べられている。即ち

「信じたる者は皆共に居りて諸般の物を共にし、資産と所有とを売り、各人の用に従いて分け与え」

たと記されている(二章四十四ー五節)。これは神の国の生活の縮図であって、それが教会の中に自然に生れ出たものであった。この事は聖霊に由って十字架の贖罪的意義が明かにせられた今、茲に発生したのは極めて当然であった。神の国を宣べ伝えたイエスは、神の国を待望した同胞によって、十字架につけられた。十字架は斯くして神の国宣教の失敗の証拠となった。 然し十字架において客観化されたものは、待望した対象が眼の前に差し出されても、それを受ける条件が「悔改」であった為に、これを受け取ることの出来なかった人間の衷なる「我執」そのものの姿であった。 これが十字架の一面であった。処がこの十字架の他の一つの面は、この「我執」を索引とする人間の罪なるものの赦罪の恩寵を示すものであった。これが聖霊に由て教えられたから、一と度四散した弟子らは再び集められたのみならず、そこに教会が創設されたのである。今や十字架に由る「罪の赦し」を聖霊に由て教えられた教会は、罪に由て妨げられた悔改を実現することにより、神の国を迎える気持を自然に且つ具体的に、この形で現わすようになったわけである。それは「当然」の事態ではあったが、然しそれは「未然」の事態であった。次に来るアナニア・サッビラの記事が示している如く、外の神の国ならざる「曲れる代」(二章四十節)の只中におかれ、その精神の侵入を妨ぐことのできない、具体的社会的存在という性格を一方にもっている教会においては、この縮図はそのまま存続することはできなかった。先ず教会は「罪の赦し」の宣教を励み、神の国来臨は「彼の日」まで俟望さるべきはずであったのである。

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第二章 教会書>第一節 使徒行伝概説 22 終わり、次は第一節 使徒行伝概説 23

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