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第二 ユダヤ・キリスト教会の形成 (三章ー十二章)6
(1) 建てられたる教会(三章一八章三節) 6
⁋第三に・教会は「医されたる人がこれと共に立つ場所」であるという事である。教会は如何に見劣りのする微力な団体であろうと、兎に角教会のみに属する特殊な医しの能力に由て実際に医された——変革された者が立つ場所である。それ故教会は「更にいい消す辞(ことば)なし」と世をして告白せしめずにはおかない、超人間的なる何ものかが働く場所である。
⁋この教会の現実を現実として見させられながらなお聖霊に逆う世は、聖霊に従う教会に対して反抗する。かく教会に逆う世の動機が次の言に余す所なくあばき出されている。彼らは
「この人々(ペテロ・ヨハネ)を如何にすべきぞ。彼等によりて顕著(いちじる)しき徴(奇跡)の行われし事は、凡てエルサレムに住む者に知られ、我らこれを否むこと能わねばなり。然れど愈(いよい)よひろく民の中にいい弘まらぬように、彼らを脅かして今より後かの名(イエスの名)によりて誰にも語る事なからしめん」
といったと記されている(四章十六ー七節)。彼らは「否むこと能わず」と告白しつつ、なおこれを否む類の人間である。その結果彼等は一切イエスの名によりて語り、また教えることをペテロとヨハネに禁じた。この逆う者等の態度は、否み得ない事実をなお否むということで、その特徴を「事実回避」にもっている。これに対し教会の指導者等の態度は「事実証言」をその特徴としている。即ち彼らの答は
「神に聴くよりも汝らに聴くは、神の御前に正しきか、汝らこれを審け。我らは見しこと聴きしことを語らざるを得ず」
という断固たるものであった。証言とは断じて幻想の産物ではない。証言とは正に
「我等は見し事、 聴きし事を語らざるを得ず」
という事実証言である。この記事に続く教会の讃美および禱告の中には、教会を攻擊し、訴える者らの 「キリストに逆う」という宿命的性格が語られている(四章二十三節以下)。そこには
「世の王等は共に立ち、司らは一つに集まりて、主およびそのキリストに逆う」
と記されたる詩篇の預言を引用し、また
「果してヘロデとボンテオ・ビラトとは異邦人およびイスラエルの民等とともに、汝の油そそぎ給いし聖なる僕イエスに逆いてこの都に集り、御手と御旨とにて、かく成るべしと予め定め給いしことをなせり」
と結論せられている。
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