第一章 第四節 ヨハネ伝概説3

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⁋第四に・このロゴス・キリストの先在は、本書の特異なる教会観を導き出している。即ちロゴス・キリストは先在し給うた者であるから・この世に存在するものにして先在のロゴスにその根拠をもたぬものはない。然しその意味において教会はロゴスの受肉者に知られていたのみで はなく、このロゴスに「潜在」していたとされる。教会は聖霊降臨の時までその地上的具体的の存在ではなかった。然し、教会は「世の創の前よりキリストにおいて選まれていた」のである(エペソ書一章三節以下)。その意味で「世の創の前からキリストにおいて在った」のである——その教会は厳密には「歴史の原なるキリスト」における教会として「原教会」と称ぶことが出来よう。
⁋そこで当然惹起される問題は、然らばロゴス・キリストが具体的に受肉して人となり給った時、教会とは如何なる関係においてあったかという問である。マタイ伝の中の教会への言及は

「我この磐の上に我が教会を建てん」(十六章十八節)

と、それを未来の事として叙べている。 即ち当時のキリストにおいては教会が直接的関係をもつものとしては示されていないので ある。従ってこの部分からはこれに対する確答が得られないわけである。これに対して光を投げるのはルカ伝の、神の国とキリストとの関係を叙べる次の言である。

「視よ、神の国は汝らの中に在るなり」

という言がそれである(十七章二十一節)これは前述せし如く、神の国そのものが、 キリストを離れて、「視よ・此処に・視よ・彼処に在り」といわるべきものではなくして、 来臨せしキリストにおいて神の国自体があったという事であり、これが即ち「神の国キリスト」 Reich-Christus である。 この光に照してみる時、 ヨハネ伝は キリストにおいて既に教会が地上的に滞在したものと観ていることがわかる。 従ってキリストの在世当時とペンテコステ以後の時代との差異はこれによってみると、 教会が地上に「潜在」した時代と、 教会が地上に「顕在」した時代の違いとなる。 かくて本書によれば、時折用いられている「我ら」 という言は教会の間接的代名詞である場合があって、この主体は主を告白し、主を知る教会であり、 実に「そこには教会がのぞいている」のである。この「我ら」を顕わにする代表的の場合は本書第三章のイエスとニコデモとの対話のそれである。そこには、神の国に就て語るイエスが、 最初は第一人称単数を以て (我) 自己を表わしていたのが、 突然自己を指すのに第一人称複数を以てし (我ら)、「我ら知ることを語り、また見しことを証す」と語ったと記されている(三章十一節)。この第一人称複数の使用は、過去においてヨハネ伝註釈者に可成りの困難を与えた。 これを筆者の筆の滑りによる誤記なりとする解釈や、これをイエスとその弟子らを含むものなりとする解釈まで、数多くの推定説が現われている。然るに今世紀の始・当時なお新進ともいうべき新約学者であったスコットが——後のユニオン神学校教授——「第四福音書」という書を公けにした(一九〇六年)。 この中に彼はこの第一人称複数の問題を採り上げ、若しこの人称の変更が筆者の書損でなかったとすればそんなことは斯くの如き立派に整えられた著作においては有り得ないことであるが——筆者は過去のイエスがなお彼の教会の声を通して、語りつつあるという事を、暗示せんと希ったものであろう、 と記している (E. F. Scott: The Fourth Gospel, Its Purpose & Theology, 1906, p.69ff.)。これは純粋に歴史的の意義においていわれた言であるが、然しこれにはこの事柄に関し(人称の変更) 神学的理解に対する重要な媒介が見出される。即ちこの人称変更ということは、筆者が意図的にしたことであるが、然しそれは単に「過去」のイエスが「現在」の教会を通して語りつつあるという事を暗示せんとしたというのみでは、その意の尽せない含蓄をもっている。というのは本書において一つ顕著なことは共観福音書においてはイエスの十字架直前にもたれた晩餐の席上与えられたものとせられている聖餐の意義が(マルコ伝十四章十七節以下)——しかしてパウロもこれをコリント前書にその関係において与えられたものとしているが (十一章二十三節以下)——このヨハネ伝においては、イエスの公生涯中、然も未だ人々が彼を棄て去らざりし前に与え、且つ教えたものとしているからである(六章)。しかしてこの教は他の何れの書におけるよりも、より長く且つより複雑な論述からなっている。 この事は明らかにこのヨハネ伝が、この「聖餐」なる教会の重要な礼奠が、地上になお生き且つ教え給うたイエスによって教えられたものであり、あるいは逆にいうと、この聖礼奠を核心とする「教会」が、実は生前イエスの裡に「潜在していた」ものとしたことの、一 つの重要な推定の手懸りとなる。
⁋この事は更に前述の「人称の変更」の起っている、ニコデモとの対話中イエスによって語られた神の国に関する言及においても現われている。そこには

「人は水と霊とによりて生れずば、の神の国に入ること能わず」

及び

「人あらたに生れずば、神の国を見ること能わず」

という二つの言が記されている(三章五節・三節)。第一の言の「水と霊」とは、いう迄もなく教会の「バプテスマ」を指したものである(参考コリント前書十二章十三節)。第二の言の「あらたに生れずば」とは、教会の「新生」または「新人」の教義を指したものである。
⁋この事は更にヨハネ伝においては、地上のイエスの衷に教会が「潜在した」のであり、イエスのニコデモとの対話において、教会がイエスの「肩からのぞいた」ものとせられているという想定を、強めるように思われる。

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第一章福音書>第四節 ヨハネ伝概説3終わり、次は第四節 ヨハネ伝概説4

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