第一章 第三節 ルカ伝概説16

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第四 神国キリストの指示 (二十四章) 1

⁋この部分は復活の朝の出来事の描写であるが、これに続くエマオ途上の二人の弟子に対する主の顕現の記事は、ルカ伝特有のものである。結論的にいえば、この記事には、前項に指摘した

「神国キリストの否認」の根本原因の超克が指示されている。即ち二人の弟子は、エマオ途上彼等に遭遇し給うたのが復活し給いしイエスたるを認むることが出深ないで、「彼は神と凡 ての民との前にて業にも、言にも能力ある預言者なりしに、祭司長ら及び我が司らは、死罪に定めんとて之をわたし、遂に十字架につけたり、我らはイスラエルを贖うべき者は、この人なりと望みいたり」

と、復活のイエスに説明している。彼らのこの言こそは、彼等の理解の次元においては、イスラエルの贖い主と十字架とが、絶対に結びつき得ないことを立証するものである。彼らは

「この人なりと望みいたり」

とある如く、救い主の俟望者である。然も彼らは生来の人間の失望というもののもつ誤れる前提を代表的に担う俟望者である。この誤れる前提こそは、十字架と十字架の含む逆說性に耐えざらしめる、人間の衷なる「我執」の表現である。 これは生来の人間の下からの理想国「候望」には、必然的に宿る「前提」であり、これが人間の心を鈍からしめる原因である。これが彼らをして十字架の下で

「かれは他人を救えり。若し神の選び給いしキリストならば己をも救えかし」

と呼ばしめた根本的の原因である。それ故復活の主は「ああ愚かにして預言者たちの語りたる凡てのことを信ずるに心鈍き者よ、キリストは必ず此らの苦難を受けて、其の栄光に入るべきならずや」といい、聖霊を受ける前の人間の理解的限界を指摘し給うた(同二十六節) 。

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第一章福音書>第三節 ルカ伝概説16終わり、次は第三節 ルカ伝概説17

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